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陶 隆康(すえ たかやす)は戦国時代の武将。大内氏の重臣。 父同様大内氏当主の側近として活動し、重用されていた。天文11年(1542年)の月山富田城の戦いの敗北以来、主君の大内義隆は政を省みなくなり、天文20年(1551年)、武断派筆頭の陶隆房(のちの晴賢)はついに謀反を起こし、義隆を討つべく居城の富田若山城から兵を進めた。隆康にとって隆房は同族であり、従兄の息子で甥という関係であった。しかし、隆康は息子の隆弘とともに主君を守るべく、運命を共にする。山口から逃亡した義隆主従は長門大寧寺に入るが、寺も包囲され最期を悟った主従は最期の抵抗を行う。隆康父子は義隆の自害の時間を稼ぐべく、冷泉隆豊らと追手と戦うが父子ともども討死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「陶隆康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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