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司馬チュウ[しば ちゅう]
司馬 伷(しば ちゅう、227年 - 283年)は、三国時代の魏から西晋にかけての武将。字は子将。司馬懿の第4子(或いは第5子とも)。司馬師・司馬昭の異母弟で司馬幹の異母兄。司馬亮の同母弟で生母は伏貴妃。妻は諸葛誕の娘(諸葛太妃)。諡号は武王。 ==生涯== 魏の時代は南安亭侯、東武郷侯を得、散騎常侍、右将軍、監兗州諸軍事、兗州刺史、征慮将軍に任じられ、のちに仮節も与えられた。『漢晋春秋』によると、260年の魏帝曹髦(高貴郷公)の挙兵の際に軍を率いて進軍を阻止しようとしたが一喝されて退散したとある。 265年、甥の司馬炎(武帝)が禅譲により皇帝として即位すると、尚書右僕射、撫軍将軍、鎮東大将軍、徐州諸軍事、東莞郡王(のち開府儀同三司、琅邪王)といった職を与えられ、東方の軍権を任された。揚州諸軍事の石苞が謀反の疑いをかけられて都に召喚された際は、司馬駿と共に石苞の謀反を警戒する任を担った。279年からの呉征伐(呉の滅亡 (三国))では、司馬炎の命を受け、軍を率いて出陣して功績を挙げ、大将軍に昇進した。孫皓が直接降伏を申し入れたのは司馬伷である。呉の滅亡後、武帝が呉に亡命していた幼馴染の諸葛靚(諸葛誕の子)との対面を望んだ際には、縁戚であったためそれを取りついだものの果たせなかった。呉征伐の功績により、所領の加増と督青州諸軍事、侍中、大将軍の職を得る。 283年に死去。死去の前に生母の陵に葬られることと、四人の子に所領を分割して相続させることを願い、許された。 司馬伷自身は晋朝に忠実であったが、子の司馬澹、司馬繇、司馬漼は八王の乱に関与し、晋朝を乱す一因をなしている。司馬繇は304年に司馬穎に殺害され、司馬澹は311年の石勒の攻撃により死亡した。司馬伷の孫で瑯邪国を継承していた司馬睿は江南に逃れて東晋を建国し元帝となる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「司馬チュウ」の詳細全文を読む
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