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司馬保[しば ぼ] 司馬 保(しば ぼ、294年 - 320年)は、中国西晋の皇族。字は景度。元は南陽王、後に晋王を僭称。司馬懿の四弟である司馬馗(季達)の曾孫で父は南陽王司馬模(元素)。伯父に司馬越、司馬騰、司馬略ら。 == 生涯 == 司馬保は南陽国の世子として、若い時には文才を評価され、著作を好んだ。永嘉5年(311年)には、父に中郎将、東羌校尉に表されて西に赴き、上邽(甘粛省天水市)を守り、後に秦州刺史に任じられた。その年永嘉の乱が発生して、懐帝は漢の捕虜になり、父の司馬模も漢に敗戦して殺された。翌年(312年)、秦王の司馬鄴は長安(陝西省西安市)にて皇太子に即位し、南陽王の位を継いでいた司馬保を大司馬に任じた。建興元年(313年)、懐帝が劉聡に殺されると司馬鄴は帝位を継いで愍帝になり、司馬保は右丞相、大都督陝西諸軍事に任じられ、同時に左丞相、大都督陝東諸軍事に任じられた琅邪王の司馬睿と並び西晋の最高権力者になった。建興3年(315年)には宰相を命じられた。 翌年(316年)、愍帝は漢に捕らえられ、帝位が空位になった。司馬保は帝位を継ぐ遺志を持っていたが、司馬睿が先に愍帝の後を継ぐ姿勢を見せ317年に晋王になり、318年に愍帝が劉聡に殺されると帝位に登り、元帝となった。司馬保も319年に晋王を僭称して、建康にて元号を改め百官を任じて皇帝としての権威を確立させていた司馬睿には臣下として従わなかった。しかし翌年(320年)に、司馬保は部下の張春、楊次に拘禁され、ほどなく死刑に処させられた〔この話は資治通鑑に載せてあるが、晋書では事実を憚って司馬保は病死と書いている。〕。 司馬保は愚昧で気が弱く決断力もないと評され、体格は肥え、体重は8百斤(約180kg)と世間に吹聴された。睡眠を好んだ。また性的不能者であり、そのため子供が無かった。司馬保の元部下の陳安は、張春、楊次を殺害した際に、司馬保を天子の礼をもって上邽に埋葬し、そして元王の諡を贈った。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「司馬保」の詳細全文を読む
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