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司馬元顕[しば げんけん] 司馬 元顕(しば げんけん、382年 - 402年)は、中国東晋の皇族。 == 生涯 == 東晋皇帝孝武帝の実弟司馬道子の息子である。父が酒色に溺れて暗愚だったのに対し、聡明で意気も旺盛で人心を読む事にも長けていたといわれる〔駒田『新十八史略4』、P136〕。父の道子が398年に王恭の乱で自暴自棄になって酒に溺れると、実権を譲られた元顕は王恭配下の劉牢之に北府軍総帥の地位を約束させて寝返らせ、王恭を斬殺した〔。続いて王恭と結託して挙兵していた殷仲堪に対しても配下の桓玄に西府軍総帥を約束する事で寝返らせ、殷仲堪を自殺させた〔駒田『新十八史略4』、P137〕。 399年に道子が酒色が過ぎて体調を崩すと、元顕は人望も能力も無い父を廃して自らが全権を握るために安帝に願い出て父が兼務していた司徒・楊州刺史の職を解任させて自らがそれに就任し、全権を握って私腹を肥やし、その私財は朝廷をも凌ぐにいたった〔駒田『新十八史略4』、P139〕。この年に孫恩の乱が起きているが、これは元顕の所領である会稽において元顕が荘園の農奴を酷使し、さらに兵役にあてた事が原因だった〔。元顕には独力で鎮圧はできず、北府軍の劉牢之に命じて鎮圧させている〔駒田『新十八史略4』、P141〕。この反乱で朝廷の軍事力が無力化している事を見た西府軍の桓玄は、孫恩の反乱の際に東上しようとして元顕に拒まれていた事を恨みに思っていた事もあり、挙兵して東上した〔駒田『新十八史略4』、P143〕。 元顕は武昌太守から桓玄は人心を失っているから兵を出して討つのがよいと勧められていたため、北府軍の劉牢之に出兵を命じたが応じなかったため、自ら水軍を編成して桓玄の罪状を挙げて討とうとした〔駒田『新十八史略4』、P144〕。しかし元顕の軍は桓玄による輸送封鎖の兵糧攻めで財政が枯渇し、用意できた軍船すら出陣できない状態だった〔。その上、劉牢之が桓玄について寝返ったため、万策尽きた元顕は桓玄の西府軍が建康に入城すると捕縛され、詔により斬殺された〔駒田『新十八史略4』、P145〕〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P134〕。父の道子もすぐに毒殺され〔〔、以後東晋の皇族は権力を失った。 なお、元顕は孫恩の信者だったともいわれる〔川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P133〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「司馬元顕」の詳細全文を読む
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