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司馬冏[しば けい] 司馬 冏(しば けい、? - 302年)は、中国の西晋の皇族であり、八王の乱の八王の一人。字は景治。西晋の武帝司馬炎の弟である斉王司馬攸の子。母親は西晋の重臣であった賈充の娘である。 元康年間に参騎常侍となり左将軍・翊軍校尉を兼ねる。永康元年(300年)に大叔父の趙王司馬倫と結託して恵帝の皇后で暗愚な夫に代わり権勢を誇っていた賈后を皇后の座から引きずり降ろし、賈后や政治中枢を担っていた張華や裴頠とその一族を殺した。しかし司馬倫が恵帝に迫って301年正月に帝位を簒奪すると司馬冏は司馬倫に殺意を抱き、従兄の常山王司馬乂、司馬乂の弟の成都王司馬穎、河間王司馬顒と謀って挙兵し、司馬倫を誅殺した。 恵帝が復位すると大司馬となり補政にあたるが、大権を手中にした司馬冏は政治をほしいままにして反発を買い、かつての同士だった司馬顒が司馬冏を廃し改めて司馬穎を補政にあたるよう上奏し、司馬乂によって攻められ殺された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「司馬冏」の詳細全文を読む
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