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司馬晞 司馬 晞(しば き、316年 - 381年)は、中国の東晋の皇族。武陵威王。字は道叔。 == 経歴 == 琅邪王司馬睿(のちの元帝)と王才人のあいだの子として生まれた。武陵王司馬喆の後を嗣ぎ、318年(大興元年)に武陵王に封じられた。咸和初年に散騎常侍に任じられた。後に湘東郡を武陵国に加増され、左将軍に任じられた。鎮軍将軍に転じ、散騎常侍の任を加えられた。342年(咸康8年)、成帝の死去にあたって、会稽王司馬昱や中書監の庾冰、中書令の何充、尚書令の諸葛恢らとともに顧命を受けた。康帝が即位すると、侍中・特進を加えられた。343年(建元元年)、秘書監を兼ねた。345年(永和元年)1月、鎮軍大将軍・開府儀同三司となった。352年(永和8年)7月、太宰に転じた。太和初年、羽葆鼓吹・入朝不趨・賛拝不名・剣履上殿の特権を与えられたが、固辞した。 司馬晞は学問はなかったが武才があり、桓温に忌避されるようになった。371年(咸安元年)11月、簡文帝が即位すると、桓温は司馬晞とその子の司馬綜を免官するよう上表した。さらに桓温は新蔡王司馬晃を使嗾して、司馬晞と司馬綜が著作郎の殷涓や太宰長史の庾倩、掾の曹秀、舎人の劉彊らと反乱を計画したと誣告させた。司馬晞は収監されて、廷尉に送られた。司馬晞を処刑するよう上奏されたが、簡文帝は許さなかった。桓温は司馬晞を新安郡に移すよう上奏し、司馬晞は家族とともに新安に移された。殷涓らは一族とともに処刑され、新蔡王司馬晃は廃位されて衡陽郡に移された。 381年(太元6年)、新安で死去した。享年は66。孝武帝により新寧郡王に追封された。387年(太元12年)、追って武陵国の封を戻された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「司馬晞」の詳細全文を読む
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