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合巻(ごうかん)は、寛文期以降江戸で出版された草双紙類の、1804年(文化元年)頃に始まった最終形態。それまで5枚(5丁)1冊に別々に綴じていたのを、纏めて厚く綴じた。明治初期まで続いた。 == 歴史 == 赤本・黒本・青本・黄表紙と時代を下った挿画入り娯楽本草双紙は、左右1ページずつ木版摺りした和紙を2つに折り、その5枚(5丁)10ページ分に表紙・裏表紙を付けて1冊に綴じるのが原則で、それの数冊で1編の絵物語になっていた。大きさは、美濃紙半裁二つ折りの中本(約14×20㎝)が普通だった。現在のB6よりやや大きい。 古典を下敷きに、洒落・滑稽・諧謔を交えて風俗・世相を諷刺的に描き綴って売れていた黄表紙類が、松平定信の寛政の改革期に、相次いで発禁にされ、業界は当座の厄除けに、黄表紙を勧善懲悪の仇討話に方向転換し、仇討話は筋が複雑で長編化して、10ページ1冊の冊数が増えた。そこで数冊を纏めて綴じてしまう工夫が生まれ、それを『合巻』と呼んだ。 1804年(文化元年)の、春水亭元好作・二代目歌川豊国画『東海道松之白浪』が、表紙に『全部十冊合巻』とうたっている〔早稲田大学図書館 古典籍総合データベース 〕。 :1806年の式亭三馬の『雷太郎強悪物語』が合巻の始まりとの説は、三馬の自己宣伝に発すると言う〔鈴木敏夫:『江戸の本屋(上)』、中公新書(1980)p.163〕。 読者の好みと世相の変遷に従い、内容は、仇討・お家騒動・古典の翻案・歌舞伎・教訓・変態・猟奇などに変遷した。 作者には、山東京伝、十返舎一九、曲亭馬琴、山東京山、式亭三馬、柳亭種彦、為永春水、一筆庵主人、墨川亭雪麿、笠亭仙果、らがいた。絵師には、北尾重政、歌川豊国、勝川春扇、葛飾北嵩、二代目歌川豊国、歌川国貞、渓斎英泉、歌川国直、歌川国安、歌川貞秀、貞斎泉晁、歌川貞重、四代目歌川豊国、落合芳幾、らがいた。 装丁も派手になったが、水野忠邦の天保の改革(1841-1843年)で地味になり、そして又華美に戻ったものの、改革のあおりで為永春水と柳亭種彦は没し、作品の質はエログロの方向に低俗化して、明治に入り、大衆向けの小新聞の影響を受けて消滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「合巻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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