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吉備団子 : ウィキペディア日本語版
吉備団子[きびだんご]

吉備団子(きびだんご)は、岡山県(旧吉備国地域)の土産として有名な菓子の一種。江戸時代末期に考案。昔はでこしらえた食品だったかもしれないが〔西川五郎、大井次三郎 (1965)、平凡社『世界百科事典』5:694 「きび」の項。「岡山名産のキビだんごは、..」〕、現在に至る改良製品は、餅米の粉を混ぜて求肥を作り、これを整形して小さく平な円形(碁石形)に仕上げる。黍の粉を混ぜて風味づけするものもあるが、使わないものもある〔山月堂は「黍」を使っていないを謳ってきた。(後述)〕。黍が主原料ではないにもかかわらず、従来から桃太郎の「黍団子」との同一視させる経歴がある〔 "When used to refer to a local specialty of Okayama, ibi-dango has always meant both millet dumplings of the Momotaro story and a dumpling of the Kibi region. In Japanese language, words like this are often made from two homonymic words."〕。
安政年間(1856年頃)に広栄堂により考案された等と略述されるが〔)〕、郷土史家の研究によれば、この菓子舗の設立は後年であり、求肥式の製品考案も明治のことだという。吉備団子のルーツを、岡山の吉備津神社で黍団子がふるまわれたり、境内で飴が売られていた故事にもとめる所見も存在する。
明治時代においては、菓子製造者が桃太郎のきびだんごと称して販売促進に利用し、昭和にはいり、桃太郎は吉備津神社の主祭神吉備津彦に由来するとの説がおこり(温羅退治を参照)、これを受けて戦後より地域をあげて、桃太郎との関連をアピールしている、その軌跡は民俗学者、加原奈穗子の研究に詳しい。
==起源==
岡山の名物菓子は、廣榮堂が安政(1854年-1859年)のはじめに考案したのというのが、説明として定文句となっている〔 〕〔なお、は、廣榮堂から得た情報として、1853年嘉永6年)頃に作り始められ、1855年安政2年)頃に吉備団子の名が付いたことを紹介している。〕。しかし、正確を期すならば、「廣榮堂の祖先」らが合作したものが先駆けであった〔きびだんご・和菓子 廣榮堂本店:廣榮堂のきびだんご150年のあゆみ  廣榮堂本店、2013年5月3日閲覧。〕。この廣榮堂は、以後、廣榮堂本店と廣榮堂武田に分かれて現在に至っている。郷土史家の岡長平の著書に詳しいが、それによると経緯は次のようなものである。
1855年(安政2年乙卯年)に岡山城下の町人が鳩首して、赤色のかきもち風の四角形の和菓子を茶請け用として製造した。うち1人は、岡山市古京町の唐津焼商売の名代の伴呂翁は、廣榮堂を創立した武田家の一門(武田伴蔵の祖父)であった。この「かきもち状」の菓子は、嗜み用の非売品であったが、「無銘も如何かと、種々考えた結果、国称を付して《吉備だん粉(きびだん粉)》と名づけて吹聴」したのが今の吉備団子の起源である、と、ここまでが明治の風俗史研究家、紅の家お色(紅廼家お色)「きびだんご考」に記されているという〔〔〔。
最初は知人・親戚に配っていただけだが、本格的な商売にしたところ、城下町で評判となる。武田伴蔵(1901年に81歳で没)は「相歓堂」という店を構えて、妾に売らせていた〔。ここで「少し細長い餡をかけた」黍製の団子を売っていたとの報告もあるが、ほんとうは「掻餅だろう」と岡長平は否定する。「相歓堂」の女主人の死後、伴蔵の親族である廣榮堂の初代、武田浅次郎が商売を引継いだ〔。
今日の求肥製のやわらかい箱詰めの「きびだんご」になったのは、この武田浅次郎の代の出来事であると、西尾吉太郎(『山陽新報』創設者)談にある〔。浅次郎自身の著書にも、明治維新以降になってから、四角(短冊形)だったものを、碁石2個ぐらいの丸形を箱に30個詰か50個詰にするよう改めた、としている。求肥式の考案については、(元)備前岡山藩池田家家老で、茶人の伊木三猿斎(伊木忠澄が隠居後1869年に名乗った雅号。1886年没)の指導のもと、昔から吉備津神社にあった黍団子に着想して創り出されたという記述も見られる。
その後、1885年(明治18年)に明治天皇が岡山に行幸の際、旧岡山藩の者から献上され、たいへん美味ということで「日本にふたつとあらぬ吉備団子/むべあじわいに名をえしや是」の一首を賜り、この御製を菓子箱に刷り込むようになった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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