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吉利 忠張(よしとし ただはる、天正元年11月13日(1573年12月7日) - 慶安5年10月13日(1652年11月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。幼名は長虎丸。通称は三郎九郎、杢右衛門尉。受領名は下総守。初名は忠位。父は吉利忠澄。母は上井薫兼の娘。妻は比志島国貞の娘。子は吉利久在。 == 生涯 == 吉利氏は島津氏庶流で元は島津姓であるが、父の忠澄が薩摩国吉利を領していたため、島津貴久の命で吉利氏に改姓した。忠張はその嫡男で鉄砲の上手であり、幼少の時より島津義弘に仕えた。 天正18年(1590年)、義弘の嫡子・久保が小田原征伐に出陣する際、その供をする16騎の内の一人となった。文禄元年(1592年)、義弘・久保親子に従い文禄・慶長の役に従軍し朝鮮に渡海する。その際(新羅侵攻戦、泗川の戦いのいずれか)、忠張は二尺六寸の刀を振るって沢山の首級を討ち取り、帰国後に1,000石を加増された。 慶長4年(1599年)、伊集院忠真が起こした庄内の乱では島津忠恒に従い出陣する。忠張は忠真とは従兄弟であったため、このときに敵方に言葉を掛けられるという事があったが、忠張は嫌疑を掛けられぬようこれに返答しなかった。翌5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、加藤清正が島津領への侵攻を企図したため、忠張は水俣に出陣、佐敷浦海上で清正の家臣・井口伊賀介と合戦に及んでいる。慶長19年(1614年)及び翌年(1615年)の大坂の陣にも家久(忠恒)と共に出陣、元和7年(1621年)に下総守の受領名を賜り、寛永12年(1635年)7月に恒吉地頭、12月に飯野地頭を仰せ付かった。 その後は、忠恒の後を継いだ薩摩藩2代藩主・島津光久の参勤の際には島津久賀、入来院重高(重国とも)と共に年寄役としてこれに従った。 慶安5年(1652年)、鹿児島にて死去。法名は円岩宗鏡庵主。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉利忠張」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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