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吉利忠澄 : ウィキペディア日本語版
吉利忠澄[よしとし ただずみ]

吉利 忠澄(よしとし ただずみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将島津氏の家臣。
== 生涯 ==
吉利氏の祖は島津国久の三男で忠澄の祖父である秀久。父の久定以降、吉利を領していたために主君島津貴久の命で領地名を名字とした。
弘治3年(1557年)、9歳のときに父久定が死去する。忠澄がまだ若年であったため、貴久は忠澄の叔父である久金に遺領を継がせようとしたが、家臣ら36人が連判して忠澄への相続を求め、受け入れられない場合は切腹する旨を訴え出たために、貴久は忠澄への相続を認めた。また忠澄はこの年に初陣、功を上げ感状甲冑を賜っている。貴久死後は島津義久の元、大隅国伊地知氏禰寝氏攻略で功を上げ、日向国攻略にも尽力し天正6年(1578年)に日向国門川地頭となった。
その後も水俣城攻めや沖田畷の戦い島津家久に従い戸次川の戦いなどにも出陣し数々の大功を上げ、根白坂の戦いでも奮戦し軍功を上げたものの、敗れて元の領地である吉利へ戻った。文禄3年(1594年)に日向国・内山地頭となったが、その翌年に病死した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「吉利忠澄」の詳細全文を読む



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