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吉原治良 : ウィキペディア日本語版
吉原治良[よしはら じろう]

吉原 治良(よしはら じろう、1905年1月1日 - 1972年2月10日)は、日本の抽象画家、実業家。吉原製油社長。具体美術協会の創設者。
==来歴==
大阪市の油問屋(後の吉原製油、現在のJ-オイルミルズ)の御曹司として生まれる。北野中学校在学中に油絵をはじめる。関西学院高等商業学部卒業。渡仏後の1928年に初個展を開き公募展などにも絵画を出展した。
当初は魚を題材に描き、敬愛する藤田嗣治に作品を見てもらう機会を得るが独自性のなさを指摘され、幾何学的な抽象絵画へと徐々に転換した。1938年には東郷青児主催の二科会の抽象画家らと「九室会」を結成するも、戦時に入ると前衛芸術は黙し、彼もまた写生などを続ける日々を送った。
戦後は吉原製油社長としての実業のかたわら絵画・デザインの発表を再開し、やがて不定形の形を激しい筆致で描いた抽象画(のちにフランスでのアンフォルメル運動との同時性が注目された)を描き始めた。その頃、最先端の流行でもあった海外オートクチュールメゾンのファッションショーの舞台装置をプロデュースするなど時代の波にも乗る。同時に、居住していた芦屋市で若い美術家らを集めて画塾などを行っていた。
1952年秋、「現代美術懇談会」を結成〔ゲンビ New era for creations – 現代美術懇談会の軌跡 1952-1957 芦屋市立美術博物館〕。そして1954年、「具体美術協会」を結成。結成時のメンバーは吉原を筆頭に、嶋本昭三山崎つる子正延正俊吉原通雄上前智祐吉田稔郎東貞美ら15人〔大阪万博のインパクト 第6章 具体美術祭り――戦後前衛の最後の花道 (Takemi Kuresawa) 青弓社〕。
吉原のもとに糾合した関西の若手の作家が主なメンバーであったため、同協会は戦後の美術運動としてはむしろ例外的に師弟関係を軸としていた〔『日本近現代美術史事典』(東京書籍、2007年9月発行)〕。芦屋の公園での野外展示に続き、東京の小原会館などで大規模な具体展を開催し、アンフォルメルの主導者であったフランスの美術評論家ミシェル・タピエらの注目を集めた。1960年、タピエと共同でアドバルーンを利用した「インターナショナル・スカイ・フェスティバル」を開催した〔『日本美術家事典 2003年度版』(構成執筆・藤森耕英、日本美術家事典社、2003年3月発行)〕。
1962年中之島にあった自分の所有する土蔵(現在の阪神高速中之島入口の南向かいの場所)を改造して具体美術協会の本拠となるギャラリー「グタイピナコテカ」を開き、会員たちの個展を開いた。また自身も黒地に大きく白い円を描くなど円形を題材にした多くの作品を描いた。具体美術協会は解散したが、その先駆性はいまでも高く評価されている。
実業でもデザインにこだわり、吉原製油の「ゴールデンサラダ油」のパッケージデザインにあたり、当時もっともモダンなグラフィックデザインを手掛けていた早川良雄に依頼するなど、画家らしくハイセンスであった。
1972年2月10日クモ膜下出血が原因で死去。。同年3月31日、具体美術協会解散〔吉原の生涯|Artrip Museum 大阪新美術館コレクション 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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