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吉川 興経(きっかわ おきつね)は、戦国時代の武将。安芸国国人・吉川氏14代(藤姓吉川氏としては最後の)当主。「興」の字は大内義興より偏諱を受けたものである。 == 生涯 == 吉川元経が60歳の時の子で、元経は興経が幼い頃に死去した。祖父国経の死に伴い家督を継承した。 吉川氏は藤原南家の血を引く名門で、興経の家督相続当時は安芸北部から石見南部にかけて勢力を張る、有力な国人領主だった。興経は武勇に優れた武将ではあったものの、戦略眼や政治力に乏しく、当主としての器量には欠けていたとされる。当時の安芸では、近隣の大勢力である大内氏と尼子氏が在地勢力を巻き込んで抗争を続けていたが、興経はその時々の形勢によって大内・尼子両陣営の間で鞍替えを繰り返した。特に天文11年(1542年)の月山富田城の戦いでは重要な局面で大内氏を裏切り、その結果大内方は大敗して大内晴持・小早川正平・毛利家臣渡辺通などを失った。このような行動に対し、他の国人衆だけではなく叔父の吉川経世や家臣団の間でも興経に対する不信感が高まった。 天文16年(1547年)、吉川氏の家臣団は興経の叔母妙玖が毛利元就の妻であるという縁故(また興経の生母が元就の異母妹ということもあったのだろう)から、従弟で元就の次男元春を養子に迎えて吉川氏の家督を継がせた。天文19年(1550年)、興経は強制的に隠居させられ、妻子と共に安芸深川に幽閉された。 幽閉後も行状は収まらなかったとされ、不穏な噂が毛利領内に流れる。興経は元就に弁解の書状を出すが、元就は興経粛清の決意を固め、同年9月、隠居館を熊谷信直・天野隆重らに急襲させた。元就は予め内応者を用意し、興経の刀の刃を潰し、その弓の弦も切らせていた。そのため興経はたいした抵抗もできず、嫡子の千法師もろとも殺害された。この結果、藤姓吉川氏嫡流は断絶した。 墓所は興経が最期を迎えた隠居館の一角に現存している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉川興経」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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