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吉成信貞[よしなり のぶさだ] 吉成 信貞(よしなり のぶさだ、寛政9年(1797年)〔『三百藩家臣人名事典 2』「吉成又右衛門」456頁。〕〔『茨城県大百科事典』1068頁では「1798年」。〕 - 嘉永3年9月4日〔『明治維新人名辞典』「吉成又右衛門」1072頁。〕(1850年10月9日))は、江戸時代後期の水戸藩の藩士。幼名は小太郎〔・十五郎〔、諱は信貞〔。仮名は又右衛門〔、又衛門〔『茨城県大百科事典』「吉成又衛門」1068頁。〕。号は慎亭、南園〔。字は履善〔。父は水戸藩士・吉成市大夫信友、母は板橋善衛門元信の女〔。妻は青山延于の女、次いで軽部六郎左衛門政行の女〔。子に吉成勇太郎信順、吉成恒次郎一徳がいる。位階は贈正五位。 == 生涯 == 大竹雲夢に学問を学び、のちに藤田幽谷の門下となった〔。剣・槍・銃・射の武術にも優れた〔。文政4年(1821年)に家督を相続した〔。小普請組を経て、馬廻組、進者番に進む〔。徳川斉昭の水戸藩主襲封問題においては、斉昭派となった〔。天保10年(1839年)、郡奉行となり、大子陣屋に住む〔。藩の天保の改革の際には斉昭の側近として活躍し、主に民政の面で尽力〔。特に天保検地の実施、秋成新田(現・茨城県水戸市)の開拓、那珂湊(現・茨城県ひたちなか市)の大火対策などに治績を収めた〔。弘化元年(1844年)に斉昭が致仕となると、その宥免に奔走し、逼塞・謹慎・蟄居の難に遭った〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉成信貞」の詳細全文を読む
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