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吉敷毛利家(よしき もうりけ)は、江戸時代の毛利氏の一族。長州藩の一門家老第四席。毛利元就の三男小早川隆景・九男小早川秀包を祖とする。 == 沿革 == 小早川隆景は実子がおらず当時備後国の国人領主大田氏の後継ぎとなっていた九弟の小早川秀包を養子とする。しかし秀包は隆景の養子に豊臣家から秀秋が入ると廃嫡され、この時別家を立てている。秀包はその後も豊臣秀吉から優遇され、隆景に従って各地を転戦するうちに加増を重ね、晩年には筑後国久留米城主として13万石を知行するに至った。関ヶ原の戦いでは西軍について京極高次が守る大津城を落としたが、戦後改易された。 その後、秀包の子・元鎮が改めて毛利輝元に召し出され、長門国内で阿川・滝部・殿居で7000石を与えられた。その子・元包は寛永2年(1625年)に周防国吉敷郡吉敷村(現在の山口県山口市吉敷地内)に領地替えとなり、このとき1万1000石に加増されている。このとき豊浦にあった菩提寺・黄龍山玄済寺も吉敷に移されており、以後を吉敷毛利家と呼んでいる。 元禄12年(1699年)越前松平家が長州藩主毛利綱広の五男監物元重を越前へ連れ去り、一族の松平伊織を養子に押し付けようとした際、毛利就直は国司広直とともにこれを回避するため奔走し、柳沢吉保ら幕閣にも運動して毛利家の血統を守っている(『古老物語・防長古今見聞集』)。 文化2年(1805年)領内に郷校「憲章館」を設けた〔憲章館跡の碑 - WEB版サンデー山口2003年4月18日〕。幕末、家臣服部哲次郎が宣徳隊を結成して禁門の変に参加。藩内の抗争では奇兵隊以下の三隊とともに俗論党と戦った。明治33年(1900年)毛利重輔は華族に列し男爵に叙された。 その子孫、大田報助により『毛利十一代史』が発刊された。吉敷玄済寺裏山には歴代当主の墓がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉敷毛利家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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