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吉沢 やすみ(よしざわ やすみ、1950年1月8日〔まんがseek・日外アソシエーツ共著『漫画家人名事典』日外アソシエーツ、2003年2月25日初版発行、ISBN 4-8169-1760-8、416頁〕 - )は、日本の男性〔漫画家、同人作家、実業家。本名は〔(よしざわ やすみ)。東京都練馬区石神井町に在住。 == 略歴 == 山梨県出身、山梨県立日川高等学校卒業〔、一年後輩に元全日本プロレスのジャンボ鶴田がいる。 高校時代より同人作家として活動しており、貝塚ひろしが主催する同人誌「まんがマニア」に漫画を投稿していた。高校卒業後には弟と母に向かって「絶対マンガ家になる」と発して旅立ち〔大月悠祐子:作 『ど根性ガエル』を生んだ父の宝物:『ど根性ガエルの娘』第4話 - 週刊アスキー 〕、上京。貝塚ひろしに師事する。 1970年、貝塚の紹介で『週刊少年ジャンプ』に『ど根性ガエル』の読切(吉沢 保己名義)を投稿。編集長の長野規の目にとまり、週刊少年ジャンプ1970年17号にて漫画家デビュー。その後すぐに同タイトルの作品を連載し、後に2度のアニメ化を果たすなど当時のジャンプを支える人気作となった。 『ど根性ガエル』のヒットにより23歳で一戸建の家を建てた。 その後アニメ化されて5 - 6年は4 - 5千万円稼いだが、当時の税理士のずさんな会計処理のため税務署の査察が入り1000万円以上の追徴課税を受け〔、さらに『ど根性ガエル』で稼いだお金は数年間の失踪中のギャンブル生活ですべて失った〔大月悠祐子:作 『ど根性ガエル』を失った作家と家族の”そのあと”:『ど根性ガエルの娘』第3話 - 週刊アスキー 〕。『ど根性ガエル』以降はヒット作に恵まれず低迷が続き、プレッシャーやスランプに苦しむようになる。何度か漫画の依頼があったもののペンを持つと手が震えるようになり、その後吐き気も止まらなくなり、思うように作品が描けなくなる〔【田中圭一のペンと箸-漫画家の好物-】第八話:「ど根性ガエル」吉沢やすみと練馬の焼肉屋 - みんなのごはん 〕。1982年〔大月悠祐子:作 もう1つの泣ける『ど根性ガエル』連載開始 知られざる家族の再生物語:『ど根性ガエルの娘』第1話 - 週刊アスキー 〕の秋から大晦日までの3か月間も精神的に追い詰められて失踪し〔、失踪中は麻雀やパチンコなどのギャンブル生活をしており〔大月悠祐子:作 話題沸騰! 『ど根性ガエル』ヒットの陰に隠された家族再生物語:『ど根性ガエルの娘』第2話 - 週刊アスキー 〕、ビルの屋上から飛び降り自殺を図ろうとした〔大月悠祐子:作 『ど根性ガエルの娘』第5話:『ど根性ガエル』を描かなくなった父と、忘れられない出会い - 週刊アスキー 〕。その後は無職で収入ゼロになり、生計を立てるため看護師資格を持つ妻が働きに出た〔。平成に入って完全に廃業状態になってからは(おそらく『パパとゆっちゃん』連載終了後)〔、デパートで警備員として3年、赤羽駅で清掃員として1年半働いた〔。 転機が訪れたのは1990年代、ドラマ『ひとつ屋根の下』で江口洋介演じる柏木達也がピョン吉のTシャツを着ていたことで『ど根性ガエル』が再び注目され始めたことである〔。その後はピョン吉がパチンコ機やパチスロ機、大鵬薬品工業「ソルマック」のCMなどでキャラクターに起用されたり、ユニクロでTシャツが売られた〔ことでキャラクター版権による収入が確保され、経済的に安定するようになった〔。 現在は好きな麻雀三昧の日々を送っており〔、2010年11月1日に行われた竹書房麻雀大会では2位を獲得した〔ど根性親子とぴょん吉争奪戦!!【VS吉沢やすみ&大井昌和先生編】 - 麻雀ウォーカー×麻雀王国 業界ニュース 〕。また、孫と2人でスケッチブックを持って公園に行くことを日課としており、絵を描く事に伴う精神的苦痛を徐々に克服している〔。 この他、山梨県観光大使を務めている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉沢やすみ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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