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吉王山 修(よしおうやま おさむ、本名:吉村 修(よしむら おさむ)、1949年5月20日- )は、熊本県八代市迎町出身で、1970年代初めに活躍した大相撲力士である。三保ヶ関部屋に所属していた。現役時代の体格は185cm、131kg。最高位は東前頭2枚目(1972年3月場所)。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。 == 来歴・人物 == 幼少の頃から体が大きく、小学校3年生の時、三保ヶ関親方(元大関・増位山(先代))に見初められた。以来、近所の人達から「将来は相撲取りに」と大相撲入りを勧められ、地元の中学校を卒業後三保ヶ関部屋へ入門。1965年3月場所で初土俵を踏んだ。同期の初土俵には、後の大関・大受らがいる。 序ノ口当初から「吉王山」を名乗り、以後、引退まで一度も改名する事は無かった。 恵まれた体躯と寄りを武器に順調に出世し、1968年11月、19歳の若さで十両に昇進。十両は、1場所負け越しただけで6場所で通過し、1969年11月場所で新入幕を果たした。 入幕後1年半ほどは、脇の甘さや気の弱さが原因で持ち前の大きな体を生かした相撲がなかなかできず、2場所幕内を務めた後一時幕下まで陥落するなど低迷した。 しかし、1971年7月場所にて13勝2敗と大勝ちして十両優勝を果たすと、以後暫く勝ち越しを続ける事となる。 1972年1月場所では関脇・貴ノ花や小結・高見山らを破り、11日目には優勝争いの単独首位に立つなど、10勝5敗と幕内で自身唯一の2桁勝利を記録した。翌3月場所では自己最高位となる東前頭2枚目に進み、6勝9敗と負け越したものの2日目に大関・琴櫻を送り出しで破り、「銀星」を挙げている。 同部屋の横綱・北の湖の土俵入りで、露払いを務めた事もある(1974年9月場所)。1973年以降は幕内中位から十両で頑張ったが、糖尿病に罹った事もあり振るわなかった。そして、西十両12枚目の地位で3勝12敗と大敗し幕下陥落が確定した1976年1月場所を最後に、26歳という若さで引退した。 引退後は年寄・小野川を襲名し、三保ヶ関部屋付きの親方として後輩達を指導していたが、1977年1月場所限りで廃業。 角界を去ってからは、名古屋市内でスナックや相撲料理の店を営むなどしたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉王山修」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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