翻訳と辞書
Words near each other
・ 吉田和晃
・ 吉田和正
・ 吉田和生
・ 吉田和男
・ 吉田和美
・ 吉田哲 (作曲家)
・ 吉田哲人
・ 吉田商業高等学校
・ 吉田啓一郎
・ 吉田善吾
吉田善哉
・ 吉田善太郎
・ 吉田善明
・ 吉田善行
・ 吉田喜八郎
・ 吉田喜昭
・ 吉田喜重
・ 吉田嘉久
・ 吉田嘉清
・ 吉田国久


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

吉田善哉 : ウィキペディア日本語版
吉田善哉[よしだ ぜんや]

吉田 善哉(よしだ ぜんや、1921年5月3日 - 1993年8月13日)は、競走馬の生産者。北海道札幌市出身。社台グループの創業者。
== 経歴 ==

===生い立ちから独立まで===
1921年北海道月寒畜産家吉田善助(善助の父・善太郎の項を参照)の三男として生まれる。善助は酪農家として日本に初めてホルスタイン種の乳牛を導入した人物でもあり、1928年から白老町社台地区に2000haの土地を購入しサラブレッド生産に着手していた。善哉は1940年空知農業学校畜産科を卒業後、社台牧場・千葉富里分場の場長を任された。しかし同年より始まった太平洋戦争の戦況悪化と共に、従業員が次々と徴兵され、善哉はひとりで牧場を切り盛りすることを余儀なくされた。やがて善哉も健康を損ない、結核を患う。1年の療養を経て回復したが、1944年、今度は二人の兄が病身となったため分場は一時閉鎖され、白老の本場に戻る。翌1945年1月に父・善助が死去。白老・富里両場の管理を担うこととなった。
善助死去から7ヶ月後の8月、太平洋戦争が終結しGHQが進駐する。マッカーサーの農地解放政策により、兄・善一の名義であった千葉富里の分場40haのうち、36haが地主不在として接収された。善哉はこれに対し異議申し立てを行い、8年後の1953年、接収された土地を払い下げの形で取り戻す。2年後の1955年に母・テルが死去したことに伴い、社台牧場千葉富里分場を社台ファームと改め、8頭の繁殖牝馬をもって社台牧場から独立した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「吉田善哉」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.