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吉田喜重[よしだ よししげ]
吉田 喜重 (よしだ よししげ、1933年2月16日 - ) は、日本の映画監督。名は「きじゅう」と音読みされることが多い。 == 来歴 == 1933年、福井県福井市佐佳枝下町で生まれる。1945年に順化小学校を卒業後、旧制の県立福井中学に入学。同年8月、福井大空襲で家が焼失する。1947年春に一家で東京へ転居し、田園調布の自宅から都立城南中学に通う。同校は吉田の在学中、学制改革により城南高校となる。この頃、フランス語を習うためアテネ・フランセへ通い、フランス映画をよく観ていた。また、NHKラジオに詩を投稿して賞金を貰ったり、演劇部には入らなかったものの、自作の演劇脚本を文化祭で上演するなど、早くも高校時代から才能を顕していた。1951年に東京大学文学部仏文科に入学する。哲学科志望であったが、吉田を外交官にしたい父の意向に従う。同科には矢島翠、宮川淳、石堂淑朗、種村季弘らが在学していた。 1955年、大学卒業とともに石堂と松竹大船撮影所に入社。木下惠介などの助監督を経て、1960年に『ろくでなし』で監督デビュー。以後、『秋津温泉』(1962年)、『嵐を呼ぶ十八人』(1963年)などの作品を手がけ、大島渚や篠田正浩らとともに松竹ヌーヴェルヴァーグの旗手として活躍する〔勝田友己によるインタビュー、山田洋次「時代を駆ける:山田洋次:YOJI YAMADA (4)」 『毎日新聞』 2010年1月25日、13版、5面。〕。1964年に女優の岡田茉莉子と結婚。新婚旅行中に6作目の『日本脱出』(1964年)のラストシーンを松竹に無断でカットされたため退社。1966年に独立プロの「現代映画社」を設立する。1969年の『エロス+虐殺』がフランスで上映されたことから海外でも注目され始める。同作は『煉獄エロイカ』(1970年)、『戒厳令』(1973年)とともに「日本近代批判三部作」と呼ばれる。以後、映画界を離れ、テレビドキュメンタリーを数多く製作した。 1986年の劇映画『人間の約束』により、13年ぶりに映画監督として復帰。同作でサン・セバスティアン国際映画祭銀の貝殻賞を受賞した。1988年の『嵐が丘』は自身初となるカンヌ国際映画祭のコンペティション部門への出品を果たし、一部の批評家から高い評価を受けた〔樋口泰人著『カンヌ映画祭の50年』 284ページ。〕。 1999年、著書『小津安二郎の反映画』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。2002年、14年ぶりの監督作となる『鏡の女たち』を発表。同年の第55回カンヌ国際映画祭で特別招待作品として上映された。2003年にはサンパウロ国際映画祭特別賞を妻の岡田とともに受賞。同年、フランス政府より芸術文化勲章オフィシエ章が授与された。2008年、オムニバス映画『ウェルカム・トゥ・サンパウロ』に参加した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田喜重」の詳細全文を読む
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