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吉田経俊[よしだけいしゅん]
吉田 経俊(よしだ つねとし)は鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。参議・吉田資経の次男。後嵯峨上皇の側近として活躍。経俊の子孫からは坊城家・中御門家が出た。 == 経歴 == 嘉禄元年(1225年)従五位下に叙爵。父・資経の極官が参議であったことや、次男であったことなどにより昇進が滞った。嘉禎4年(1238年)左衛門権佐に任ぜられ、仁治3年(1242年)に正五位下で五位蔵人に補任されるが、兄の為経は経俊が五位蔵人となった29歳で権中納言になっていた。しかし、後嵯峨上皇による院政が開始されると順調に官位を進めていき、宝治元年12月(1248年1月)に右少弁に任ぜられて三事兼帯を果たす。 建長3年(1251年)従四位下に昇叙。左大弁を経て、建長7年12月(1256年1月)に蔵人頭に補任された。建長8年(1256年)に兄の為経の死去を受けて伝奏・評定衆となる。また和泉国を知行した。正嘉2年(1258年)には参議に任ぜられて公卿に列し、正嘉3年(1259年)に従三位に叙せられた。正元2年(1260年)造東大寺長官を兼ね、同年(改元して文応元年)正三位・讃岐権守に叙任。弘長2年(1262年)権中納言に昇任した。弘長3年(1263年)大宰権帥を兼ねるが、以後8年間これを兼帯し続けた。 文永4年(1267年)従二位、文永5年(1268年)には正二位に昇叙される。文永8年(1271年)に大宰権帥を辞任して中納言に転じる。文永11年(1247年)大嘗会検校を務め、9月には治部卿を兼ねたが、建治2年(1276年)10月18日薨去。享年63。日記『経俊卿記』(吉黄記)が残る。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田経俊」の詳細全文を読む
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