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吉田 義夫(よしだ よしお、1911年1月3日 - 1986年12月22日)は、主に1950年代から1980年代にかけて活躍した日本の俳優。京都府京都市出身。本名同じ。 ==来歴・人物== 京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)で日本画を学び、卒業後は法隆寺昭和大修理の一環として行われた金堂壁画模写事業に壁画摸写技官として参加し、入江波光画伯の指導の下、第八号壁(文殊菩薩像)を主任として担当した。失火による壁画損傷で模写事業が中止されると高等学校の美術講師に転じた。そうした才能を活かしてか、役者転向後は自分の衣装を自分で考えていたという。 兵役後、いくつかの劇団参加を経て、1952年から東映京都の作品に出演するようになる。『笛吹童子』『三日月童子』『百面童子』など東千代之介主演の童子ものに悪代官役などでレギュラー出演し、東映時代劇の悪役として欠かせない存在となった。 1960年代からはフリーとなり、大映、松竹、東宝など各社の作品に登場。TVドラマにも活動の場を広げ、時代劇や刑事ドラマでヤクザの親分などを演じる一方、1966年の子供向け特撮テレビ映画『悪魔くん』ではコミカルかつ頼もしい善玉としても活躍した。交流のあった漫画家のみなもと太郎の著書『挑戦者たち』(少年画報社)に、この時期の吉田の人物伝がある。 1970年代は松竹の『男はつらいよ』シリーズに連続出演。冒頭の寅さんの「夢シーン」の常連悪役だった。『男はつらいよ 幸福の青い鳥』では彼が演じた旅回りの座長が亡くなったことになっているがこれは既に吉田が病に倒れていたためであり吉田の死の二日前の公開だった。 「悪役俳優」としての存在感は大きく、私生活においても、一度タクシーに乗ろうとしたところ、運転手に「お前のような悪党を乗せられるか」と罵られて降ろされ、石を投げられたこともあったという〔『ガメラを創った男―評伝 映画監督・湯浅憲明』(アスペクト刊)での湯浅監督の談話より〕。 晩年は、自宅で趣味の油絵三昧の生活を送っていた。1986年12月22日、急性心不全のため地元・京都市内の病院で死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田義夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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