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吉田 重賢(よしだ しげかた)は、戦国時代の武将・弓術家。近世弓術の主流となった吉田流(日置流)弓術の祖。 == 生涯 == 寛正4年(1463年)、近江国蒲生郡河森(川守)(現滋賀県蒲生郡竜王町川守)に生まれた。 重賢は幼少時に逸見流・武田流・小笠原流 〔現在でも武田流、小笠原流と称する流派は存在するが、これらは一度断絶後に復興されたものであり、重賢が学んだものと同様であるかは不詳。〕などの古流弓術を学び、続いて明応年間頃に日置正次(弾正)が創始した射法を修めたとされる。 日置弾正の射法は従来のものに比べ革新的であったことから、弾正以前の流派を「古流」、弾正以降を「新流」という〔本多利実 弓道保存教授及演説主意 一名 弓矢の手引 、明治22年8月〕。 この流れは重賢の子孫らにより大いに世に広まり、日置流または吉田流と称され、重賢は吉田流開祖とされた。近世以降の弓術流派はほぼ全てこの日置・吉田流の系統に属する。 なお日置弾正に関しては、その存在を含め不明な点が多く、実在説の他、重賢による創作説、正次・重賢同人説などがある。 重賢は天文12年(1543年)4月13日没した。享年81〔吉田家菩提寺の津市の四天王寺の過去帳による。〕。 家業の弓術は子の吉田重政(出雲守・一鴎)が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田重賢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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