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吉田郡山城の戦い[よしだこおりやまじょうのたたかい]
吉田郡山城の戦い(よしだこおりやまじょうのたたかい)は、天文9年(1540年)から天文10年(1541年)まで安芸国吉田の吉田郡山城(現・広島県安芸高田市)周辺で行われた、大内氏に従属していた毛利氏当主・毛利元就と尼子詮久(後の尼子晴久)との戦い。実際は城外での戦闘が主で、いわゆる籠城戦ではなかったため、郡山合戦(こおりやまかっせん)とも呼ばれる。 == 背景 == 安芸国の吉田を治める国人領主であった毛利氏は、周防の大内氏に長年服属していたが、出雲の尼子氏が勢力を拡大して安芸に伸張してくると、二大勢力の狭間で巧みな外交を続けていた。 大永4年(1524年)の佐東銀山城の戦いでは尼子方として戦った毛利氏であったが、かつて元就の家督継承問題に尼子経久が介入〔詳細は毛利元就#家督相続及び相合元綱の項目を参照。〕してきたことなどから、尼子氏に対する不信は少なくなく、翌5年(1525年)には大内氏の元に帰参した。とは言え、勢力維持のために大内・尼子の間での絶妙なバランスを保ち続けており、享禄3年(1530年)に発生した尼子氏の内紛(塩冶興久の乱)の影響で一時的に尼子氏と大内氏の間に和睦が成立すると、元就も享禄4年(1531年)に尼子詮久と義兄弟の契りを結んでいた〔毛利元就 「猛悪無道」と呼ばれた男(著:吉田龍司 2010年 新紀元社)〕。 しかし、天文6年(1537年)に尼子経久が隠居し、尼子氏の家督を詮久が継ぐと、元就は長男の少輔太郎(後の毛利隆元)を人質として山口に差し出し、大内氏の傘下に加わっている立場を明確にした。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田郡山城の戦い」の詳細全文を読む
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