翻訳と辞書
Words near each other
・ 吉田鋼太郎
・ 吉田長利
・ 吉田長淑
・ 吉田陣屋
・ 吉田陽子
・ 吉田隆太
・ 吉田隆子
・ 吉田隆彦
・ 吉田隆徳
・ 吉田隆義
吉田隆長
・ 吉田隼人
・ 吉田隼人 (自転車選手)
・ 吉田雀巣庵
・ 吉田雄人
・ 吉田雄人 (野球)
・ 吉田雄兎
・ 吉田雄樹
・ 吉田雅司
・ 吉田雅夫


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

吉田隆長 : ウィキペディア日本語版
吉田隆長[よしだ たかなが]

吉田 隆長(よしだ たかなが)は、鎌倉時代後期から南北朝時代公卿吉田経長の次男。母は葉室定嗣の娘で、吉田定房冬方とは同母の兄弟である。
== 生涯 ==
皇太子尊治親王の東宮亮を務め、親王が後醍醐天皇として践祚した文保2年(1318年)2月26日に蔵人頭に抜擢される。同年8月24日には参議に昇進する。元応2年(1320年)3月24日には権中納言に任ぜられ、左兵衛督・検非違使別当を兼ねるが、日吉大社神人を禁獄したことに延暦寺からの抗議を受け、9月10日に阿波権守に左遷される。ただし、同年12月には許されて帰京している。元亨元年(1321年)7月26日に定房が権大納言を辞すると、同日に民部卿に任ぜられたが同3年6月16日にこれを辞している。有職故実と兄・定房の言行を記した『吉口伝』(『夕郎故実』)を編纂したが、正中2年(1325年)6月23日に官を去って出家覚源と号した。
南北朝分立後、兄の猶子となっていた三男・藤長とともに京都に残る。貞和4年/正平3年(1348年)、藤長が家号を「甘露寺」と定めた際に、南朝に仕えていた定房の子宗房(後の南朝右大臣)と嫡流の地位を巡って争ったことが『園太暦』に見える。
貞和6年/正平5年(1350年)、余命短い事を悟った隆長は『唯識論』を書写、その中で現在(京都の)朝廷に仕えている一門の者が藤長しかいないことを嘆き、家門の存続を願っている。翌月74歳で死去した(『園太暦』)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「吉田隆長」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.