|
吉美侯部(きみこべ)または吉弥侯部(きみこべ)、は古代日本における部民およびその氏である。 『六国史』(『類聚国史』の補分を含む)には吉弥侯部や吉弥侯を氏とする人物の記述が時折見られる。『続日本紀』では公民や官人としての君子氏や君子部氏、吉弥侯部氏、吉弥侯氏が記載されているが、類聚国史の「俘囚」の項には多くの吉弥侯部氏や吉弥侯氏が俘囚として記録されており、『続日本後紀』以降では俘囚以外にも賊首や賊主としての吉弥侯部氏、吉弥侯氏の記録がある。これら六国史の実際の記載としては「陸奥国俘囚」「陸奥国賊首」「出羽国俘囚」「常陸国俘囚」「甲斐国俘囚」「甲斐国賊主」「越中国俘囚」「摂津国俘囚」「播磨国俘囚」「伊予国俘囚」「安芸国俘囚長」「因幡国俘囚」「出雲国俘囚」「豊前国俘囚」「豊後国俘囚」とされているが、その殆どは何らかの功を挙げ位階を賜った記事となっている。これらの人物の中には、尾張国、駿河国、阿波国へ移配された者もあった。 また「陸奥国人」「出羽国人」「常陸国人」「下野国人」「伊予国人」「豊後国人」「肥前国人」ほか「吉弥侯何某の女」などとされる「吉弥侯部氏」「吉弥侯氏」については、吉弥侯部氏や吉弥侯氏出自の人物を高評し(「女」の場合は夫への貞節を尽くしたことを礼賛し)、勲等や姓を賜わったり課税を免除されるなどの記事が見られる。 陸奥国の吉弥侯部氏や吉弥侯氏出自の人物が「上毛野公」や「下毛野公」、「物部連」の賜姓を受けたという記事も見られるが、これは天皇より出兵の勅を受け自ら兵を率い陸奥国や出羽国の平定に携わることが多かった「上毛野朝臣」(上野国国造家)や「下毛野朝臣」(下毛野国国造家)、「物部朝臣」(軍事氏族)などに投降した蝦夷の俘囚が多くおり、俘囚を管理する官人の奏上により俘囚であっても人物には天皇より姓が与えられていたことが分かる。 == 概略 == 正倉院所蔵の「陸奥国戸口損益帳」に「君子部阿佐麻呂」「君子部久波自」の名がみられる〔豊田編『東北の歴史』(1967)〕ように本来は「君子部」であったとものとみられるが、天平勝宝9年(757年3月)に「吉美侯部」に改称された〔『日本古代氏族人名辞典』(1990)〕。以後、文献には「吉弥候部」の表記も多く、8世紀後半の陸奥国の人物として吉弥侯部真麻呂(きみこべのままろ)、吉弥侯伊佐西古(きみこのいさせこ)らの名が史料に現れる。 毛野氏がその伴造だったと考えられており、賜姓の際には多く「上毛野」某公、「下毛野」某公の氏名を賜っている。一例としては陸奥国信夫郡の外従八位吉弥侯部足山守(きみこべのあしやまもり)が上毛野鍬山公(かみつけのくわやまのきみ)を賜ったことがある〔。吉弥侯部のうち、一部の者は中央に貢進され、朝廷や貴族などに仕えて雑役に従事した。吉美侯部(吉弥侯部)が東北地方以外にも各地に広く分布するのは、律令国家が俘囚を全国に配して内民化をはかったためだと考えられる〔。奈良時代後半の吉弥侯横刀(きみこのたち)は近衛府の判官(近衛将監)から上野介へと昇進し、「下毛野朝臣」を賜姓されている。 『新撰姓氏録』では上毛野朝臣と吉美侯部とを同祖としているが、それは疑わしい〔。しかし、両者がきわめて密接な関係にあったことは疑いなく、それゆえ、そのような伝承がつくられたものと推定される。なお、毛野氏のほかに東北地方に勢力を伸ばした古代氏族には大伴氏や阿倍氏、中臣氏があった。丈部(はせつかべ)の人びとが賜姓される場合は阿部氏、大伴部の人びとは大伴氏が多かった〔。 『陸奥話記』には、前九年合戦の際の陣立てにおいて、七陣より成る安倍氏征討軍のうち、第三陣を率いた荒川太郎吉彦秀武(清原武則の甥で娘婿)、第六陣を率いた斑目四郎吉美侯武忠(吉彦秀武の弟)の名がみえ、「吉美侯(吉彦)」の名で大軍を率い、出羽清原氏の姻族として出羽国山北三郡のなかで一定の勢威をほこり、劣勢であった源頼義・義家父子による征服戦争をようやく勝利に導く要因となったなど「地方軍事貴族」と呼んでよい事績が注目される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉美侯部」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|