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吉良義孚 : ウィキペディア日本語版
吉良義孚[きら よしざね]

吉良 義孚(きら よしざね)は、江戸時代中期の旗本吉良家の支流である東条家を継ぎ、赤穂事件で絶えた吉良の家名を復興した。
== 生涯 ==
宝永8年/正徳元年(1711年)、旗本柘植三右衛門影正(1000石)の次男として生まれた。養父となる東条義武は影正の実弟である。影正・義武兄弟の母の実家荒川家は吉良氏の分家という縁にあたる。
義孚は、享保7年(1722年)12月14日に没した東条義武の末期養子となる。享保8年(1723年)3月5日に東条家500石の家督相続が認められ、6月11日に将軍徳川吉宗に初謁する。
東条家の宗家である吉良家(三河吉良氏)は、赤穂事件によって絶えていた(事件後、武蔵吉良氏の流れを汲む蒔田家が吉良の家名を称し、高家を務めている)。享保17年(1732年)2月25日、東条義孚は吉良姓への復姓を願い出て許された。その後、西の丸書院番となったが、宝暦10年(1760年)12月28日には職を辞した。
明和3年(1766年)4月19日に死去した。享年56。吉良家の菩提寺である牛込の万昌院に葬られた。法名は大洲。
家督は長男吉良義勝が継いだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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