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吉良頼貞 : ウィキペディア日本語版
吉良頼康[きらよりやす]

吉良 頼康(きら よりやす、生年不詳 - 永禄4年12月5日1562年1月10日))は、戦国時代武将武蔵吉良氏当主。吉良成高〔成高を祖父とする説もある。〕の子。正妻は北条氏綱の娘。養子は吉良氏朝(堀越貞朝)。
== 生涯 ==
武蔵吉良氏当主・吉良成高の子として誕生。生年は不詳である。はじめは頼貞と名乗った。
武蔵国世田谷城(現・東京都世田谷区)や同国久良岐郡蒔田村(現・神奈川県横浜市南区)に居を構えたことから、「世田谷御所」「蒔田御前」などと呼ばれた。
大永4年(1524年)正月に相模国の北条氏綱が上杉朝興江戸城を攻略すると、北条氏に従った〔下山(2012),107p〕。天文2年(1533年)には氏綱による鶴岡八幡宮造営に参加し、材木を蒔田から海路で杉田へ送り、そこから延べ5万人の人足で八幡宮まで運んだ記録が残っている〔現在、蒔田は海岸線から2kmほど離れているが、当時は海に面しており直接船を出せた。下山(2012),107p〕。また、氏綱の娘を正室に迎えており、『快元僧都記』に天文8年6月7日1539年6月23日)に安産祈願を行った記録が残っていることから、この頃には既に婚姻をしていたと思われる。
天文15年(1541年)11月に従四位下左衛門佐に叙位・任官された〔下山(2012),108p〕。天文17年(1548年)に北条氏康より一字拝領し、頼康に改名している。実子はいたようだが、永禄3年(1560年)12月に堀越氏から氏朝を養子に迎え、翌年2月には家督を継がせている。
永禄4年12月5日(1562年1月10日)に死去し、蒔田の勝国寺に葬られた。法名は勝光院脱山浄森大居士〔新編武蔵風土記稿(古跡館蹟の項 デジタルライブラリーでは59コマ~60コマの部分)〕。〔本稿のうち、特に注記の無い記載については、黒田(2007),53-54Pによる〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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