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吉野弘 : ウィキペディア日本語版
吉野弘[よしの ひろし]

吉野 弘(よしの ひろし、1926年大正15年)1月16日 - 2014年平成26年)1月15日)は、日本詩人
== 略歴 ==
山形県酒田市生まれ。1938年昭和13年)酒田市琢成第二尋常小学校を総代として卒業し、1942年(昭和17年)12月、山形県酒田市立酒田商業学校を戦時繰り上げ卒業した。若いころ高村光太郎の「道程」を読んで感銘を受ける。商業学校卒業後、1943年(昭和18年)1月に帝国石油に就職した。1944年(昭和19年)に徴兵検査に合格するが、入隊5日前に終戦を迎えた。戦後は労働組合運動に専念していたが、1949年(昭和24年)に過労で倒れ、肺結核のため3年間療養した。入院中に詩人の富岡啓二と親しくなっている〔。療養中に詩作を始め、1952年(昭和27年)詩学社詩誌「詩学」に「爪」、「I was born」を投稿し新人に推薦される〔。次いで翌1953年(昭和28年)、川崎洋茨木のり子の詩誌「櫂」に同人として参加した。ここでは谷川俊太郎大岡信らと親睦を深めている。1957年(昭和32年)に私家版詩集『消息』を刊行して注目をあつめ、1959年(昭和34年)には詩集『幻・方法』を上梓した〔。1962年(昭和37年)に退職してコピーライターとなった。
1972年(昭和47年)、『感傷旅行』で第23回読売文学賞の詩歌俳句賞を受賞。1979年(昭和54年)から1986年(昭和61年)まで西武池袋コミュニティカレッジで詩の公開講座を担当し後進の育成に励んでいる。1980年(昭和55年)からは文筆を専業とするようになった〔。1990年平成2年)、『自然渋滞』で第5回詩歌文学館賞を受賞。1994年(平成6年)、『吉野弘全詩集』(青土社刊、ISBN 4-7917-2094-6)を刊行する。代表作には結婚披露宴のスピーチで引用され広く知られる「祝婚歌」をはじめ、国語教科書にも掲載された「夕焼け」、「I was born」、「虹の足」などがある。詩作の作風は独特の転回視座を有しているのが特徴である。また母校をはじめとする校歌社歌作詞活動に取り組み、髙田三郎の合唱組曲「心の四季」でも知られている(この曲のために吉野は新作を書き下ろすとともに、既発表詩のいくつかを改めている)。随筆や評論も手掛け、詩の魅力や詩作法・技術論から詩的感動の原点とは何かという問題にまで論を進めた評論『現代詩入門』(青土社刊、ISBN 978-4-7917-6352-8)が著名である。新聞雑誌において詩壇の選考者を担っている〔。1996年(平成8年)酒田市特別功労賞、1998年(平成10年)第41回埼玉文化賞(芸術部門)を受賞した〔。
埼玉県狭山市北入曽に在住し、1977年(昭和52年)には同所を題材とした詩集『北入曽』を発表。晩年は静岡県富士市に暮らした。職業は「雑文業」と称することもあった。
米寿を目前に控えた2014年(平成26年)1月15日21時48分、肺炎のため静岡県富士市の自宅で死去した〔吉野弘さんが死去 詩人、「祝婚歌」 (2014年1月20日)、47NEWS共同通信、2014年1月20日閲覧。〕。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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