|
『清水次郎長』(しみずのじろちょう)は、清水次郎長を主人公とする三代目神田伯山の講談である〔志水, p.218-219.〕〔''清水次郎長+神田伯山''、国立国会図書館、2015年8月11日閲覧。〕〔清水次郎長 (1924年)、国立国会図書館、2015年8月11日閲覧。〕〔清水次郎長 (1925年)、国立国会図書館、2015年8月11日閲覧。〕〔おもな講談の演目 、コトバンク、2015年8月11日閲覧。〕〔神田伯山 、コトバンク、2015年8月11日閲覧。〕〔神田伯山(3代) 、コトバンク、2015年8月11日閲覧。〕〔神田伯山(3世) 、コトバンク、2015年8月11日閲覧。〕〔神田+伯山(3代目) 、コトバンク、2015年8月11日閲覧。〕。三尺物(任侠物)〔。同名の映画も存在するが、必ずしも伯山原作とは限らない〔、2015年8月11日閲覧。〕〔、2015年8月11日閲覧。〕。『清水次郎長伝』(しみずのじろちょうでん)とも呼ばれ、略称『次郎長伝』(じろちょうでん)〔〔〔〔〔〔。二代目広沢虎造が浪曲化したことでも知られる〔〔。 == 概要 == 作者である講釈師、三代目神田伯山(本名・岸田福松、1872年 - 1932年〔〔〔〔)は、『義士伝』や『越後伝吉』、『幡随院長兵衛』で知られる二代目神田伯山(本名・玉川金次郎、1841年 - 1920年〔)の門弟であり、数え年12歳の1884年(明治17年)に入門して松山、1898年(明治31年)に小伯山と名のったが、1904年(明治37年)二代目が名を譲り初代神田松鯉と改名、小伯山は三代目を襲名した〔〔〔〔。本作のほかにも『夕立勘五郎』や『野狐三次』等の「侠客物の上手」と讃えられ、周囲八丁の寄席の客を奪うほど人気を得て「八丁荒らし」の異名をとる〔〔〔〔。本作の傑出した評判により、俗に「次郎長伯山」とまで呼ばれるようになった〔〔〔〔。 三代目伯山が、山本鉄眉こと天田愚庵(1854年 - 1904年)が、清水次郎長(1820年 - 1893年)に取材してその生前の1884年(明治17年)4月に発行した『東海遊侠伝』に取材し、大胆に創作を加えて完成したのが、本作である〔。伯山は「荒神山の喧嘩」に従軍した講釈師・松廼家太琉(清龍〔山本, p.134.〕)から譲渡された、本作に先行する『清水次郎長』の「点取本」も参考にしている〔〔〔増田, p.82, 97.〕〔村上, p.213-215.〕。松廼家太琉は、『鬼面山音五郎』『小柳平助』『鋼ヶ関金太郎』等を創作した人物であり〔、『東海遊侠伝』には「売講子清龍」として登場する〔。伯山は清水湊にも取材に向かい、次郎長の最後の妻・三代目お蝶、次郎長を知る親分衆にも丹念に取材し、完成まで10年かけたという〔。初演は1907年(明治40年)5月、東京市本所区亀沢町(現在の東京都墨田区両国)の福本亭、『名も高き富士の山本』の題で発表した〔。 本作の登場によって、実在の人物である本沢の為五郎、穴太徳次郎、神戸の長吉、竹居安五郎、黒駒勝蔵らは、次郎長を引き立てるために悪人や卑怯者として描かれるようになった〔〔。追分三五郎、小走の半兵衛は本作に初めて登場するキャラクターであり、小説『次郎長三国志』(1953年)の村上元三は「大瀬の半五郎」を関東綱五郎(1822年 - 1886年)をモデルにした伯山の創作、増川仙右衛門(1836年 - 1892年)も史実では次郎長の乾分ではなく、兄弟分であるとする〔〔足立, p.209.〕。都田の吉兵衛(1828年 - 1861年)を「都鳥の吉兵衛」としたのも伯山である〔今川, p.163.〕。「清水二十八人衆」も『東海遊侠伝』には表現されておらず、本作において、初めて数えられた〔〔森, p.431.〕〔清水次郎長の二十八人衆を知りたい 、国立国会図書館、2015年8月11日閲覧。〕。斬った張ったの殺戮が繰り広げられる次郎長の実際のエピソードを、日本人好みの義理人情に厚い痛快な話に塗り替えたことに本作の功績があるとされる〔。 「酒飲みねえ、すし食いねえ、江戸っ子だってね」「神田の生まれよ」で知られる二代目広沢虎造の浪曲『石松三十石船道中』の原型は、伯山の創作である〔森の石松はどのように創られたか 、田村貞雄、『次郎長』第27号、次郎長翁を知る会、2015年8月11日閲覧。〕。江戸っ子が石松に対し、清水一家で一番強いのは「大政、小政、大瀬半五郎、増川仙右衛門、法印大五郎、追分三五郎…」と挙げていくなかで、小政はまず冒頭に大政と対になって登場する。16人挙げたところで、大瀬の次に石松を失念していたことを忘れていたことを思い出す、という筋である。伯山の講談本『清水次郎長』(1924年)では「大政、小政、大瀬村の半五郎、法印大五郎、増川の仙右衛門、奇妙院の常五郎、三保の松五郎、大野の鶴吉、鳥羽熊、庵原の廣吉」と10人挙げて、石松を思い出すのであり、追分三五郎は出てこない〔〔神田・今村, p.232-234.〕。 清水次郎長を題材にした映画は、伯山の初演から4年後の1911年(明治44年)10月4日に公開された『清水の次郎長』がもっとも早く〔日本映画情報システム 検索結果、文化庁、2015年8月11日閲覧。〕、尾上松之助が主演、牧野省三が監督し、日活の前身の1社である横田商会が製作・配給した〔、2015年8月11日閲覧。〕。ただし当時はスタッフの等のクレジットを行う習慣がなく、同作と伯山の『次郎長伝』との関係は不明である〔。明確に伯山の名をクレジットした映画作品は、1924年(大正13年)6月30日公開の『次郎長外伝 大瀬半五郎』(監督賀古残夢、脚本食満南北)、同年10月10日公開の『清水次郎長 義兄の巻』(監督・脚本沼田紅緑)を待つことになる〔〔〔。 講談本化の最初については不明だが、国立国会図書館蔵書等では、1924年6月24日、今村信雄が書き起こし、武侠社が発行した『清水次郎長』がもっとも早い時期のものである〔。同作は「前篇」であり、その末尾には「日本一の侠名を国中に轟ろかすお話は後篇に於て詳しく申上る事に致します」とあるが〔伯山・今村, p.320.〕、「後篇」が同図書館に所蔵されておらず、発行の有無も不明である〔。「前篇」では、森の石松が斬殺され、その後「盃事はしねえでも、今日から七五郎は俺の乾児になる、お前達の兄弟分だ」と次郎長が宣言し、その欠員を小松の七五郎(1818年 - 1872年)が埋めるシーンまでが描かれる〔。翌1925年(大正14年)には大阪市の盛文館が「第一巻」、同じく改善社が引き継いで「第二巻」「第三巻」を刊行した『清水次郎長』がそれに続く〔。 浪曲化については、初代玉川勝太郎(1881年 - 1926年)が先に取り掛かり、得意芸としていたが〔玉川+勝太郎(初代) 、コトバンク、2015年8月11日閲覧。〕、二代目勝太郎(1896年 - 1969年)も当初『次郎長伝』をお家芸としていたが、二代目広沢虎造(1899年 - 1964年)が『次郎長伝』で人気を得て以降は、これを捨てる〔玉川+勝太郎(2代目) 、コトバンク、2015年8月11日閲覧。〕。一方、1922年(大正11年)に襲名した二代目広沢虎造は、1927年(昭和2年)に三代目伯山の『次郎長伝』を聴き、その付き人になり、『次郎長伝』を暗記したという〔。「虎造節」の『清水次郎長伝』は、『秋葉の火祭り』から『荒神山の血煙り』までの全24篇〔安野, p.128.〕、虎造の浪曲『清水次郎長伝 石松三十石船道中』が大阪中央放送局で放送され、大人気を得たのは、1937年(昭和12年)であった〔榊原, p.58.〕。郷土史家・堀文次が「荒神山の喧嘩」を中心に史実を探求、伊勢新聞等に発表し始めるのが1935年(昭和10年)であり、これは、長谷川伸、村上元三といった清水次郎長周辺の物語に興味を持った作家に影響を与えており、以降、小説等では、新たに明らかになった史実が盛り込まれるようになった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「清水次郎長 (講談)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|