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名倉家 : ウィキペディア日本語版
名倉家
名倉家(なぐらけ)は、江戸時代に著名な接骨医である名倉直賢を輩出し、その後代も整形外科として名をなした一家である〔日本の整形外科の黎明期 - 兵庫県整形外科医会〕。
== 来歴 ==
桓武天皇の後裔になる秩父氏の分家として、現在の小鹿野町に居を定めた奈倉氏がその祖とされる〔奈倉館と名倉堂 〕〔後述の『名倉系図』では畠山重忠の後裔という記載がある。〕。戦国時代武田氏秩父地方に進出したのに伴いその地を去り、江戸千住に移り住んだ〔〔「奈倉」が「名倉」に変わった時期等は未詳。〕。千住に移ったのは名倉重直(1668年 - 1712年)の代とされる〔名倉医院 - あだちのみどころ発見(足立区観光交流協会)〕。
名倉弥次兵衛直賢(1750年 - 1827年)は、1771年明和7年)、「骨接ぎ所」を千住に開業して名をなした〔。以後、名倉家は「接骨術の代名詞」となり〔、森鴎外の新聞小説『渋江抽斎』には「当時流行した接骨家元大坂町の名倉弥次兵衛」として登場し、作中でその流行ぶりを「研ぎ上ぐる刃物ならねどうちし身の名倉のいしにかゝらぬぞなき」と狂歌に詠まれるほか、夏目漱石も小説『道草』に「驚ろいた養父母はすぐ彼を千住の名倉へ伴れて行って出来るだけの治療を加えた」と描写している。『漱石研究年表』によれば、漱石は1871年明治4年)に骨折し名倉整骨院で治療を受けている。
葛飾北斎は、文化3年(1806)頃、名倉弥次兵衛に入門し、人体の骨格の勉強をしやっと人体を描く本当の方法がわかったと語っている〔絹本着色骸骨図 - 台東区〕。
東京大学総合図書館の鴎外文庫には森鴎外の自筆による「名倉系図」が所蔵されている〔名倉系図 - 東京大学総合図書館鴎外文庫〕。
陸軍軍医総監となる石黒忠悳は青年時代に江戸の麹町で開業していた名倉弥五郎に入門を申し込んだところ、西洋医学を勧められたという逸話があり、のちに名倉直賢から2代後で弥五郎の義弟である名倉知文(1841年 - 1898年、眞斎)と同じ陸軍軍医として親交を結んでいる〔我部正彦「」『日本医史学雑誌』第36巻1号、1990年〕。この石黒と弥五郎のやりとりは司馬遼太郎の小説『胡蝶の夢』の一場面として登場する〔司馬遼太郎『胡蝶の夢』第二巻 ポンペ 18頁 新潮文庫1983年〕。
直賢から5代目となる名倉謙蔵(1866年 - 1939年)は、東京・駿河台に整形外科病院「名倉病院」を1931年に開設している〔。
6代目の名倉重雄(1894年 - 1985年)は、名古屋帝国大学教授として整形外科学講座を開設し〔東京厚生年金病院長を務めた。また、夫人は高橋是清の孫娘である〔百年企業のれん三代記 - 神田学会〕。
現在でも多くの接骨院は名倉の名称を継承している。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「名倉家」の詳細全文を読む



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