|
名和 秋(なわ あき、1979年11月15日 - )は、東京都出身のプロボウリング選手。血液型はA型。相模原パークレーンズ所属。大会公認ハイスコアは2006年全日本女子選手権で記録された300(パーフェクト)。箸や鉛筆は左利きだが、ボウリングは右投げ。サニーサイドアップとマネージメント契約。BS日テレ制作の『ボウリング革命 P★League』でも活躍。キャッチフレーズは「サイレントビューティー」。 == 略歴 == 父の正年は日本ボウリング界では有名なドリラー(ボウリングのボールに指穴をあける職人)である〔プロボウラー・名和秋さんインタビュー(1)(時事ドットコム) 〕。女子プロボウラー初の公認パーフェクトである中山律子の300点達成時のボールも、父・正年が手掛けたものである。また母の礼子も元プロボウラー(第6期)。 幼い頃、近所のボウリング場に家族で遊びに行った際、父親が秋に口やかましく指導を展開してしまい、ボウリングに対して嫌悪感を覚える。それに反抗するかのように、小学校4年生から中学3年まではバレーボール部に所属。当時大活躍していた大林素子に憧れ、全日本の大会を観戦したり、日々ビデオを見たりしながら、自身もバレーボール競技に没頭した。姉がバレーボールの強い高校に進学したが、レギュラーになれず、同じような体型の自分も無理だろうと、間接的にバレーボールへの夢を断念。 高校は農大一高(東京都世田谷区)へと進学。この頃から本格的にボウリングを再開する。高校三年間は国体に連続出場を果たす。その実績からスポーツ推薦で國學院大學法学部に入学した。 大学入学後、ボウリング部に所属(ボウリング部のコーチは父親だった)。大学1年生の個人選抜では、予選から調子がよく、全国制覇を間近に投球を続けていたが、ボウリング部として有名な京都産業大学勢の底力や応援の迫力に負け、スコアを乱し優勝を逃す。その悔しさにトイレにこもって涙を流したというエピソードがある。この悔しさを機に、自分からボウリングに対して真剣に取り組みたいという思いが芽生えたという。そうして臨んだ一年後の同大会で、見事学生チャンピオンに輝いた。この実績を買われ、大学2年生から4年生のときにはナショナルチームのメンバーとして選出され、海外での試合にも出場した。この海外遠征でアラブ首長国連邦のドバイに行ったとき、石油王からプロポーズされたというエピソードを持つ。 大学4年生のときナショナルチームの代替で落選するも、父親の勧めもありプロテストに挑戦し、見事に一発合格する。大学卒業後は、同大学の事務職員とプロボウラーの二足のわらじの生活をしていた〔が、2004年に相模原パークレーンズとの専属契約を機にプロボウラーの活動一本に専念するようになった。 2004年の11月にはレディース新人戦で優勝している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「名和秋」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|