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名和顕忠 : ウィキペディア日本語版
名和顕忠[なわ あきただ]

名和 顕忠(なわ あきただ、宝徳4年/享徳元年(1452年) - 没年不詳)は、室町時代から戦国時代にかけての武将名和氏の第19代当主にして、宇土名和氏(名和系宇土氏)の初代。父は名和教長。兄は名和義興幼名は幸松丸。子に名和重年名和武顕。中世期における名和氏中興の祖。
== 生涯 ==
顕忠が誕生した頃の名和氏は家中内紛の時期だった。18代義興が長禄3年(1459年)12月13日に弑逆されると〔義興の享年は16であり、顕忠と親子関係にあるとは考え難く、兄弟であったとみられる(天文4年(1535年)9月10日付「皆吉伊豆守文高長状写」)。〕、未だ幸松丸を名乗っていた顕忠は肥後国八代郡から退散し、球磨郡相良氏の許へ、家老の内河式部少輔と共に一旦身を寄せる。この時相良氏は11代相良長続の時代だったが、この長続の援助によってようやく古麓城へ帰還し、寛正6年(1465年)に家督を継ぐ〔「皆吉伊豆守文高長状写」は幸松丸の人吉亡命を8歳の時としている。〕。この時顕忠は、その見返りとして同郡高田郷を相良氏へ割譲し、また相良為続の息女を室に迎えている。
しかし文明7年(1475年)8月、為続が薩摩国牛屎院に出兵すると、これに乗じた顕忠が一旦割譲した高田郷を攻撃した事で為続の「深重」な「遺恨」を買ってしまい、同8年(1476年)から居城たる古麓城へ繰り返し攻撃を受けるようになった〔前出では相良氏との確執については文明3年(1471年)以降という説もある(「名和重年書状写」)。なおこの際、顕忠との縁戚関係も清算されたと考えられる。〕。顕忠は連年にわたってこれを退けるが、同16年(1484年)3月7日、遂に落城の憂き目に遭う。
八代を逐われた顕忠は阿蘇氏の監督下に入るが、同年4月16日、赤隈の合戦に敗れた宇土為光が同じく阿蘇氏の監督下に入ると、両者の間に交流が育まれる〔顕忠が為光の娘婿になったのは、阿蘇氏との協定によって為光が宇土へ復帰する文明18年(1486年)以降だと考えられる(阿蘇品保夫「肥後における名和氏と宇土氏」1977)。〕。
明応2年(1493年)に肥後国守護職を継いだ菊池能運と為光との間に対立が生じ、為光方に与した為続が明応8年(1499年)3月、豊福の合戦において大敗したことで、顕忠は再び古麓城を奪還する。
文亀元年(1501年)、為光が3度謀叛を企て挙兵すると顕忠は為光に合力し、能運との間にも隙を生じてしまう。この事は、敗れた能運が宿敵だった相良長毎と結ぶ事で顕忠にはね返り、同3年(1503年)に為光を滅ぼした余勢を駆る能運・長毎連合軍に攻め寄せられ、10月27日古麓城下において大敗、翌永正元年(1504年)2月初旬、顕忠は古麓城を明け渡し八代から退去し、顕忠は再び阿蘇氏の監督下に置かれ、益城郡木原城へ移った。
だが同月15日に能運が急逝すると、宇土城の城代だった城為冬は同城を退去し本国へ戻る。これを受け顕忠は、為光の娘婿という立場もあって宇土城へ入り、ここに名和系宇土氏(宇土名和氏)の成立を見る。
同7年(1510年)9月、豊福城と小野の領有を巡り争っていた、菊池武経阿蘇惟豊との間に成立していた和睦が、翌8年(1511年)の武経没落によって破れると、豊福城の帰属は曖昧になる。これを受けて顕忠は兵を出し、同じく同城の領有をはかった長毎の軍勢と4月24日に合戦しこれに勝利、豊福城を領有した。
しかし同13年(1516年)12月、3ヶ月半に及ぶ長毎勢との長期戦を経て、顕忠は遂に豊福城から撤退する。翌同14年(1517年)6月、相良氏との間に軍事同盟を締結し、相良氏との間に一応の政治的決着を見た。以後顕忠の名は史料にない〔「おそらくこの同盟成立後ほどなく隠居・死去したものと推察される。」(『新宇土市史 通史編第2巻』)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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