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名胡桃城(なぐるみじょう)は、現在の群馬県利根郡みなかみ町下津にあった日本の城。1949年(昭和24年)に「名胡桃城址」として群馬県指定史跡。利根川上流の右岸断崖部に位置し、川を挟んで北東に位置する明徳寺城と対峙する。 歴史的には、真田昌幸の沼田城の支城として、また1590年の小田原征伐の誘因となったことで著名である。 == 歴史・沿革 == 築城時期は、伝承によれば室町時代の明応元年(1492年)に沼田城の支城として沼田氏によって名胡桃館が築かれたのが最初とされている。史料上では、上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、天正7年(1579年)に家臣の真田昌幸に命じて、敵対関係となった後北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として築いた城である。昌幸は小川可遊斉と共に名胡桃館を攻略して隣接地に築城、ここを足がかりとして昌幸は沼田城攻略を企図し、調略の結果、沼田城を手に入れることに成功した。 1582年の武田氏の滅亡後、天正壬午の乱を経て独立した真田氏と後北条氏が沼田・吾妻領をめぐって争った。名胡桃城は沼田城の有力な支城として、沼田領に攻め入ってきた北条の軍を退けた。 天正17年(1589年)、豊臣秀吉の調停で沼田領は北条に引き渡されることとなったが、真田氏は「名胡桃城は祖先の墳墓の地である」と主張して、名胡桃城の譲渡を拒否、秀吉は津田盛月と富田一白を派遣し検分した結果、沼田城を含む利根沼田の3分の2は後北条氏領となったが、利根川を境として、名胡桃城を含む残り3分の1はそのまま真田領として安堵されたという。名胡桃城には鈴木重則が城代として入ったが、同年11月、沼田城代となっていた北条の猪俣邦憲が、重則の家臣を寝返らせて名胡桃城を奪取する(名胡桃城事件)。これが惣無事令に違反したとして秀吉の怒りを買い、翌1590年に小田原征伐が行われ、これによって後北条氏は没落した。 しかし名胡桃城事件については当時の資料が少なく、経緯についての多くが『関八州古戦録』など江戸時代に記された軍記物に依拠しており、不明な点が多い。豊臣側では、天正17年11月21日付けで秀吉が真田昌幸に与えた書状において「北条氏が国境の者に命じて真田氏の城に攻撃を掛け、城主を殺して城を乗っ取ったそうだが、言語同断であり、城を乗っ取った者を成敗するまでは北条氏を赦免できない」旨を記している〔『真田文書』〕、など、真田氏からの報告を元にした事件の概要を伺い知ることができるが、北条家当主氏直は豊臣側の詰問に対し、同年12月7日付け書状で「名胡桃城は真田氏から引き渡されて北条側となっている城なので、そもそも奪う必要もなく、全く知らないことである」旨を釈明しているなど、真相については不明な点が多い。 小田原征伐の結果、後北条氏が滅亡し、真田氏が沼田領を安堵されると名胡桃城は廃城となる。実際に使用されたのは約10年間であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「名胡桃城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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