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三河鉄道キ10形気動車(みかわてつどうキ10がたきどうしゃ)は、三河鉄道が新製したガソリンカー。 == 概要 == 1930年(昭和5年)12月に鉄道省が運行を開始した省営バス岡多線は、三河鉄道にとって大きな脅威となった。 当時、三河鉄道は1928年から自社でも岡崎駅前 - 大樹寺間で直営バスを運行しており、さらに同じ区間には1927年4月16日に岡崎電気軌道を合併したことで手中にした、自社の軌道線である岡崎市内線〔厳密には岡崎井田 - 門立間の鉄道線を含む。ただし、大樹寺 - 三河岩脇間は1929年の岡崎線開業時に1,500Vへ昇圧されてそちらへ編入され、三河岩脇 - 門立間は600Vのままいわゆる盲腸線となった末、1939年に廃止されている。〕も存在、このため同一区間で3種の交通機関が競合するという事態となったのである。 そこで三河鉄道は多治見までの直通という点で優位性を持つ省営バスに対抗すべく、その運行開始前に自社で建設を進めていた鉄道線である岡崎線(三河岩脇 - 上挙母間)と、岡崎市内線の2つの異なった規格の路線を結合、岡崎駅前 - 挙母を直通する列車を運行開始し、省営バス運行開始後に予想される旅客の逸走を抑止することを計画した。 だが、当時の三河鉄道の鉄道線は架線電圧1,500Vの直流電化、軌道線は明治以来の架線電圧600Vの直流電化であり、軌間こそ同じ1,067mmであったものの、電化規格に互換性がなかった。そのため電車で直通運転を実施するには軌道線区間の架線電圧を直流1,500Vへ昇圧するか、あるいはその反対に鉄道線区間の架線電圧を直流600Vへ降圧するか、さもなくば双方の電圧に対応する複電圧車を用意するか、のいずれかの対応が必要であった。だが、当時2両の小型2軸ボギー車を除き在籍旅客車が全て木造2軸単車であった軌道線側の全線昇圧は、事実上全在籍車両の入れ替えを要するため合理的な方策とは言い難く、また鉄道線側の降圧は軌道線車両の昇圧工事よりは容易に実施可能であったものの車両性能の大幅低下をもたらすことになり、さらに変電所負担も増大することになるため、いずれの策も採り難い状況であった。しかも、軌道線側は脆弱な軌道条件かつ厳しい車両限界の制約が課される状況にもあったことから重装備の複電圧車の投入も困難であった〔一般に抵抗制御方式で直流整流子電動機を搭載する複電圧車は、速度制御と電圧切り替えに伴う主回路の直並列切り替えの必要性から、主電動機を4基以上搭載することが求められる。このため制御器や電圧転換器などの搭載機器が大型化する傾向が強く、小型車への搭載には様々な制約が伴う。〕。 そこで三河鉄道は鉄道線と軌道線の双方を直通可能な車両として、両線の電化方式に制約されず、さらに軌道線の荷重制限の範囲内での設計が比較的容易な小型軽量ガソリンカー〔実際に完成した本形式は自重14tとなっている。〕の製造を決定、1929年(昭和4年)に日本車輌製造本店でキ10形(11 - 13)の3両が新製された〔メーカーでの図面作成日付は1929年3月1日となっている。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三河鉄道キ10形気動車」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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