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吐火仙[とかせん] 吐火仙(とかせん、拼音:Tŭ/Tù huŏ xiān、生没年不詳)は、(テュルギシュ)の可汗。蘇禄の子。名は骨啜(クチュル、グチュル)。 ==生涯== 開元26年(738年)夏、突騎施(テュルギシュ、Türügeš)の莫賀達干(バガ・タルカン、Baγa Tarqan)の兵は蘇禄を夜襲して殺した〔『新唐書』では「開元27年(739年)7月、北庭都護の蓋嘉運は軽騎で突騎施を碎葉城で襲撃し、蘇禄を殺した。」とある。〕。都摩度〔『新唐書』では「都摩支」。〕は初め、莫賀達干とともにこの謀略に関わっていたが、次第に争い合うようになると、蘇禄の子である咄火仙を可汗に擁立して碎葉(スイアブ)城に住まわせ、自らは黒姓可汗(カラ・カガン)である爾微特勒とともに怛邏斯(タラス)城に拠点を置いて莫賀達干を攻撃した。莫賀達干は唐へ使者を送ってこのことを訴えた。 開元27年(739年)8月、莫賀達干は安西都護(磧西節度使)の蓋嘉運,石(チャーチュ)王の莫賀咄吐屯(バガテュル・トゥドゥン),史(ケシュ)王の斯謹提とともに吐火仙と都摩度の衆を討って大敗させた。この戦いで咄火仙は捕えられ、金河公主(交河公主)も送還された。唐は阿史那懐道(アシナ・カイドゥ)の子の昕を立てて可汗とし、この混乱を鎮撫させようとしたが、莫賀達干が反対したため阿史那昕を立てず、代わりに莫賀達干を可汗として、突騎施の民衆を統括させた。 開元28年(740年)、蓋嘉運は将士を率いて闕に詣で、吐火仙と捕虜を太廟に献上した。玄宗は吐火仙を赦して左金吾衛員外大将軍,脩義王とした。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吐火仙」の詳細全文を読む
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