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向田 邦子(むこうだ くにこ、1929年(昭和4年)11月28日 - 1981年(昭和56年)8月22日)は、テレビドラマ脚本家、エッセイスト、小説家。第83回直木賞受賞。 週刊誌のトップ屋時代は幸田 邦子名義で執筆していた。共同ペンネーム「葉村彰子」の一員でもある。 == 略歴 == 東京府荏原郡世田ヶ谷町若林(現・東京都世田谷区若林)生まれ。第一徴兵保険(東邦生命保険。現、ジブラルタ生命保険)勤務の父親が高等小学校を卒業したあと給仕として入社し、幹部社員となった苦労人で〔川本三郎「向田邦子ー祐天寺の郊外住宅地で育った『昭和の娘』」(『それぞれの東京』淡交社 2011年pp.146-155)〕転勤族であったため一歳で宇都宮に転居したのを初めとして、幼少時から高等女学校時代まで日本全国を転々としながら育つ。文芸春秋社を創設した菊池寛を輩出した四国の香川県の高松市立四番丁小学校卒業、東京都立目黒高等女学校、実践女子専門学校(現・実践女子大学)国文科卒業。 新卒で財政文化社に入社し、社長秘書として勤める。その後雄鶏社に転職し、「映画ストーリー」編集部に配属され、映画雑誌編集者として過ごす。雄鶏社を退社した後は脚本家、エッセイスト、小説家として活躍する。 1981年(昭和56年)8月22日、旅行中の台湾苗栗県三義郷で遠東航空機墜落事故にて死去。享年51。 法名は、芳章院釋清邦。墓所は東京都府中市の多磨霊園。墓碑銘は森繁久彌による「花ひらき、はな香る、花こぼれ、なほ薫る」。遺品はかごしま近代文学館に寄贈され、常設展示されている。寄贈を決めた時の母・せいの言葉は「鹿児島に嫁入りさせよう」〔向田和子 『向田邦子の恋文』 91頁。新潮社、2002年(平成14年)。ISBN 4104554014 〕であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「向田邦子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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