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君ヶ嶽 助三郎(きみがだけ すけさぶろう、1814年〈文化11年〉 - 1854年10月21日〈嘉永7年8月30日〉〔http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3353&l=j〕〔8月28日(1854年10月19日)に没した説もある。〕)は、浦風部屋及び境川部屋に所属した元力士。 本名は若林と伝わっている〔が詳細は不明〔姓は市川とも、名は助松、助三郎とも言われている。〕。身長・体重とも不明〔だが小兵だった〔【長野・城下町松代名所めぐり~君ヶ嶽助三郎の供養碑】 季節の話題(長野県内の市町村)、2014年5月13日記事〕。信濃国埴科郡東寺尾村〔ふるさと松代人物館(信州松代観光情報のHP) 〕(現在の長野県長野市松代町〔)出身。 最高位は東前頭筆頭。 半農半商だった若林伴蔵(若松屋)の子として生まれた〔。稲出川市右衛門(3代浦風)に見込まれ〔、1835年1月場所で初土俵(序ノ口)を踏んだ。1841年11月場所で西十両10枚目(十枚目格)に昇進〔。翌1842年に3代境川の甲豊五郎の養子となった〔が、十両時代は一進一退の相撲が続いた。1847年3月場所で5勝2敗1分の好成績を挙げ、翌11月場所で新入幕を果たした〔。入幕後はやや勝ちが先行するようになり、1850年3月場所では6勝3敗1休の優勝次点(優勝相当成績は小柳常吉〈のち大関。この場所6勝0敗2休2分の成績だった〉)の好成績を挙げた〔。翌1851年2月場所で松代藩の抱えとなった〔。小兵ながら、当時の大関・鏡山濱之助や小結・常山五良治を破ったこともあり、実力派の力士として活躍した〔。現役中より4代境川を襲名し二枚鑑札となっていたが、それが寿命を縮める結果となり、現役中の1854年8月30日〔に死去。41歳の若さだった。墓は長野市松代町の西念寺〔。 幕内通算 14場所 50勝42敗21分22休の成績を残した。 改名歴なし〔。 香蝶楼豊国(歌川国貞)によって、帯刀をしている浮世絵が現存している〔君ヶ嶽 助三郎(浮世絵ぎゃらりぃ) 〕。また近年になって、地元のNPO法人を中心に君ヶ嶽の足跡を残す動きも活発になっている〔江戸後期活躍力士 松代出身力士 君ヶ嶽 助三郎 地元NPO法人が紹介冊子出版 信濃毎日新聞、2008年5月24日記事。〕。 == 出典 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「君ヶ嶽助三郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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