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吾平山上陵[あいらのやまのうえのみささぎ]
吾平山上陵(あいらのやまのうえのみささぎ、あいらさんりょう)は、ウガヤフキアエズ(天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊)とタマヨリビメ(玉依姫)の陵。可愛山陵、高屋山上陵とともに神代三山陵の一つ〔奉祝会、1940。〕〔現地看板『吾平町観光ガイド』 2008年1月3日閲覧。〕。明治政府により1874年(明治7年)、鵜戸山を流れる姶良川に開いた岩窟「鵜戸窟」内の2つの塚を「吾平山上陵」(現・鹿児島県鹿屋市吾平町上名)に治定した。現在、宮内庁書陵部が管轄している。ただし、その後の1896年(明治29年)にも「鵜戸陵墓参考地」(鵜戸神宮背後の速日峯山上、現・宮崎県日南市宮浦)を定めている。 伝承地は他にも日本の宮崎県と鹿児島県に数か所ある。 == 概略 == 『延喜式』に、「日向国吾平山上陵彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊在二日向国一無二陵戸一」(一、二は返り点)とあり、『日本書紀』に、「崩二西州之宮一、因葬二日向」吾平山上陵一」(一、二は返り点)とある。平安時代にはすでに陵戸が無かったが、1874年(明治7年)7月10日に政府は肝属郡姶良郷上名(かんみょう)村に治定を見た〔現地看板『吾平山上陵(吾平山陵)』 吾平町、1997年(平成9年)3月修正、2008年(平成20年)1月3日閲覧。〕。しかし、鹿児島と県を接する宮崎県側からの反論が強く、1896年(明治29年)6月23日に鵜戸神宮近くの速日峯山上も伝説地と定めた(現在は参考地)。 鹿屋市吾平町の吾平山上陵は「小伊勢」ともいわれ、1935年(昭和10年)には昭和天皇が、1962年(昭和37年)には皇太子(今上天皇)・皇太子妃(皇后美智子)が参拝している。1936年(昭和11年)に建立された昭和天皇の参拝記念碑は、1938年(昭和13年)10月15日の水害(肝属川を参照)で流出したが、1990年(平成2年)に河川整備事業の最中に発見され再び建立された〔現地看板『昭和天皇行幸記念碑 土埋木について』 2008年(平成20年)1月3日閲覧。〕。山陵内には「鵜戸六社権現」があった〔『三国名勝図会』などを参照。〕が、1871年(明治4年)の災害により現在地(鹿屋市吾平総合支所⦅旧吾平町役場⦆の南隣)に遷座し、名称も鵜戸神社に改められている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吾平山上陵」の詳細全文を読む
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