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呂文徳[りょ ぶんとく]
呂 文徳(りょ ぶんとく、? - 1271年)は、南宋末期の将軍。弟に呂文煥がいる。 南宋末期に仕えた長江で大勢力を誇った軍閥のひとりで、名将と謳われた孟珙没後は事実上、南宋を支えた猛将である。1244年にはモンゴル帝国軍と寿春で戦い、勝利して淮西招撫使に任じられた。 その後もモンゴル帝国軍と各地で戦って武功を発揮し、朝廷内で大きな影響力を持った。1259年にモンゴルのモンケ・クビライ兄弟らによる大規模な侵攻が行なわれた際には、鄂州でクビライの攻撃を防いだ。これらの長年にわたる功績で、1267年には少傅に任じられる。 クビライが第5代大ハーンに即位し、1268年からアジュ・史天沢らを大将とした大規模な遠征軍を派遣すると、最前線の襄陽・樊城を守る総大将として奮戦するが、籠城中に病に倒れて没した。軍は弟の呂文煥が引き継ぎ、その遺志を継いで呂文徳の死後も2年にわたって奮戦した。 呂文徳は孟珙と比較しても決して劣る人物ではない。武略もさることながら、大軍閥として多くの精鋭を抱え、「尚文軽武」の風潮が強かった南宋を事実上支えた軍人である。その軍は南宋最強であり、モンゴル軍が5年も手こずったのはそれを証明している。また、呂文徳は張世傑など多くの有能な軍人を推挙するなど、人脈も豊富で政略も有能だった。ただし彼ひとりに支えられていたからこそ、その没後に弟の呂文煥がモンゴルに降伏してその軍を吸収されたため、南宋は坂を転げるように滅亡していくことになったのである。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呂文徳」の詳細全文を読む
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