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呂祖倹[りょそけん] 呂 祖倹(りょ そけん、?-慶元2年(1196年))は、南宋の政治家・儒学者。字は子約。呂大器の子で呂祖謙の弟。 == 経歴 == 兄の呂祖謙の下で学び、兄の没後に時の宰相であった周必大らに認められ、籍田令・台州通判などを歴任した。ところが、韓侂冑が政権を握り、朱熹や周必大らが追放される(「慶元の党禁」)と、追放に反対して韓侂冑の排除を求めた。そのため、慶元元年(1195年)4月に韓侂冑によって韶州(現在の広東省韶関市)に配流され、その地で死去した。著書に『大愚集』がある。 朱熹に始まる朱子学が正学とされた元代に編纂された『宋史』では、同族でやはり党禁批判で捕らえられた呂祖泰(呂本中の孫)とともに「忠義伝」に加えられている。当時、無官で韓侂冑暗殺後に迪功郎(従九品)に任ぜられたに過ぎない呂祖泰が列伝に加えられているように、朱子学の儒学者やこれを支持・擁護した人々を高く評価する傾向にあった『宋史』の特徴が呂祖倹の評価にも反映されたと考えられている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呂祖倹」の詳細全文を読む
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