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呉奇偉 : ウィキペディア日本語版
呉奇偉[ご きい]

呉 奇偉(ご きい、)は、中華民国の軍人。広東軍(粤軍)出身の軍人で、後に国民革命軍に属した。粤軍では張発奎の腹心として知られる。晴雲。別号は梧生
== 事跡 ==

=== 粤軍での台頭 ===
貧しい農民の家庭に生まれる。商業を営んでいた伯父の資金援助で呉奇偉は学問を開始したが、後に軍人の道を志し、黄埔陸軍小学に入学した。その後、武昌陸軍中学、保定陸軍軍官学校(第6期)と進学している。卒業後は広東に戻り、陳炯明の広東軍(粤軍)に属した。1922年民国11年)に陳が反孫文(孫中山)クーデターを起こしても呉は孫支持を維持し、粤軍第1師に留まった。
1926年(民国15年)、北伐が開始されると、呉奇偉は粤軍第1師から改組された国民革命軍第4軍に属し、張発奎率いる第12師の第36団中校参謀長に任ぜられた。呉奇偉は呉佩孚率いる北京政府軍との戦いで軍功をあげ、1927年(民国16年)春に第34団団長に昇進している。次に河南省張作霖配下の奉天派と戦い、やはりこれを撃破する上で貢献した。同年9月、張に随従して南昌に駐屯し、呉奇偉は第12師副師長兼任に昇進している。
同年11月、広州に戻った張発奎は、汪兆銘(汪精衛)の支持を得た上で黄琪翔と共に広東省政府主席李済深(当時は蒋介石支持派)を広州から駆逐するクーデターを起こす。呉奇偉も張らに与し、李の軍を追撃した。しかし、蒋の支援を得た李は速やかに反撃して広州を奪回、張と黄は下野に追い込まれた。その後、張を支持する第4軍軍長繆培南の下で呉は第12師師長に任ぜられ、李の軍と戦ったが利無く、繆と共に江西に逃れて蒋に投降した。
1928年(民国17年)5月、第4軍は北伐に再び加わり、山東張宗昌の直魯聯軍を撃破した。同年夏の軍縮に伴い、第4軍は第4師に、第12師は第12旅に縮小され、そのまま呉奇偉が旅長を務めた。1929年(民国18年)3月に蒋桂戦争が勃発すると、第4軍は江西や湖北方面へ転戦し、新桂系(新広西派)の軍を迎撃した。しかしまもなく張発奎が第4軍に復帰して反蒋を宣言して新桂系と連携することになり、呉もこれに従う。1930年(民国19年)、中原大戦で反蒋軍が敗北すると張発奎は下野し、呉は残された第4師を率いて広西省に逃れ、新桂系の一員として柳州に駐屯した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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