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呉承恩[ご しょうおん]
呉承恩(ご・しょうおん、簡体字:吴承恩、ピンイン:Wú Chéng'ēn、1506年(正徳元年)頃 - 1582年(万暦10年)頃〔生年は1500、1505、1510、1511年など、没年は1583年などの説あり(中野『孫悟空の誕生』)〕)は明代の中国の官吏、文人。字は汝忠、号は射陽山人。江蘇省淮安府山陽県〔現在の江蘇省淮安市淮安区〕の人。中国では魯迅が『中国小説史略』で記述してから、『西遊記』の著者として認められているが確証はなく、日本の太田辰夫や中野美代子らの反論がある。 ==人物== 父は浙江省仁和県の教諭をしていたが、後に妻の実家を継いで絹物商を継ぐが豊かではなかった。承恩は側近の子として生まれ、幼少から文才ありとして近隣に知られ、文章の代作をして収入を得ていた。1544年(嘉靖23年)歳貢生に選ばれ、北京中央で官職を得ようと何度か郷試を受けるがうまくいかず、1553年〔1564年とする説もある。〕に長興県の県丞の職についた。しかし誣告されたため1年あまりで「袖を払って、帰った」という。晩年は売文で業をなし、80歳の高齢まで生きたという。 詩文では当時の一流で、清代に朱彝尊の編んだ『明詩綜』に7篇が収められている。後七子の徐中行とも親しく、徐が進士となった時には北京に訪問している。『天啓淮安府志』(天啓年間1621-27年)には、「性は敏にして智慧は多し、博く多くの書物を極めた。詩文をなし、筆を下ろしては清雅流麗を立成し、秦少游の風があった。また諧謔を善くし、ところに雑記を幾種も著しては、一時、その名を震わした」とあり、著作に『射陽集』『春秋列伝序』『西遊記』が挙げられている。だがこれは呉承恩没後の記録である。 彼はたくさんの著作があったというが、生家が貧しく、子女もないので作品は散逸している。怪奇小説集『禹鼎記』も名前のみ伝わり、内容は失われている。現在は後世に編まれた『射陽先生存稿』全4巻があるだけである。1958年に劉修業が『呉承恩詩文集』を編集・刊行している。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉承恩」の詳細全文を読む
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