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呉景濂[ご けいれん]
呉 景濂(ご けいれん、)は、清末・中華民国の政治家。字は蓮伯。号は述唐、晦廬。辛亥革命時に革命派の一員として活動し、民国成立後も国民党などに加わり、護法運動でも孫文(孫中山)を支持した。しかし第一次奉直戦争後は、北京政府で直隷派の幹部として活動している。 == 事績 ==
=== 清末民初の活動 === 1902年(光緒28年)、京師大学堂優級師範科に入学し、卒業後に候補内閣中書となった。1907年(光緒33年)、奉天両級師範学堂監督に任ぜられ、更に奉天教育会会長に選出される。翌年、憲政講習所を設立し、更に日本へ教育事業の視察に趣いた。1909年(宣統元年)、奉天諮議局議員に任命され、1911年(宣統3年)には議長に選出されている。辛亥革命勃発後に奉天保安会が設立されると、呉景濂は副会長に任命され、さらに奉天代表として革命派の南京で各省代表会に出席した〔徐主編(2007)、632頁。〕。 1912年(民国元年)1月、呉景濂は南京で臨時参議院議員に任命され、同年4月に臨時参議院の北京移転に従った。その後、統一共和党の有力幹部となり、同年8月には宋教仁率いる国民党に合流している。翌1913年(民国2年)、衆議院議員に選出され、同年中に国民党で理事、副理事長を歴任した。袁世凱が国会を解散した後の1914年(民国3年)1月、総統府顧問に就任している。しかし袁が皇帝即位を目論み始めると、呉はこれに反発、1915年(民国4年)12月に奉天省へ戻って(東)三省公民討袁大会の発起人となった〔。
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