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呉 智英(くれ ともふさ、またはご・ちえい〔1982年にJICC出版局(現・宝島社)から出した『インテリ大戦争』の表紙裏の著者紹介では、ペンネームの読みを「ごちえい」とし、「くれともふさ」という読みも認めている。〕、1946年9月19日〔1946年生まれは確かだが、個人データを勝手に占いに使われるのを嫌い、著作の人物紹介欄などでは複数の生まれた月日を公表している。9月19日生まれのほか、10月21日生まれ、10月19日生まれとなっているものがある。また自著で何度か自らが乙女座生まれであると語っている。血液型は公表していない。〕 - )は、日本の評論家、漫画評論家。愛知県西枇杷島町(現・清須市)出身。京都精華大学マンガ学部客員教授、日本マンガ学会二代目会長で現在は理事。「儒者」「封建主義者」を自称し、民主主義信奉者や人権思想を批判している。大学で論語の講座を持っていたこともある。 本名は新崎 智(しんざき さとし)。ペンネームは「水滸伝」の百八星の中での随一のインテリである軍師役「呉用」に由来する〔『論よりコラム』(双葉社)P.142。ちなみに、呉用の字(あざな)は「学究」である。呉は時に夢野久作の「ドグラ・マグラ」の登場人物から筆名を取ったともいっており、また本人が師と仰ぐ西部邁が留学した街、バークレーからきているという説もあるが、呉の初期の著作に西部はまったく登場せず、「師と仰いできた」ということ自体も疑わしい。〕。 == 経歴 == 愛知県西枇杷島町(現・清須市)生まれ。東海高校を経て1965年に早稲田大学法学部に入学、1971年に卒業。高校時代に日本教職員組合の教師から共産主義の教えを受け、学生運動では日本共産党にも既存の新左翼の組織にも所属せず、無党派の活動家として全共闘運動に参加。大衆迎合主義や日本共産党の党派性を批判した。早稲田大学2年生になったばかりの時、学費値上げなどを巡るストライキを防衛しようと、スト破りをしようとする運動部の学生と乱闘して逮捕、起訴。2年半にわたる公判の後、1969年、4年生の終わりの頃に執行猶予つきの有罪判決を受けたが、大学からは何の処分も受けなかった。その理由について呉智英は #事件当時、未成年だったこと(少年法の規定により、事件当時未成年であれば有罪判決確定後も前科がつかない) #自分が法学部の学生であり、教授会から推定無罪の原則を尊重してもらえたこと(他の学部の学生は停学や退学などの処分を受けていた) と推測している〔『吉本隆明という「共同幻想」』p.88-90〕。当時、共に早稲田闘争を戦った宮崎学によると、呉智英はある総会で執行部の運動方針に猛然と反対し、「学生大衆の中から『おまんこがしたい』という要求が澎湃として湧き上がったとしたら、執行部の諸君は大学当局にかけあって、我々におまんこ実現を勝ち取ってくれるというのか。ばかげた無原則的なことをいうんじゃないよ」と演説したことがあるという〔宮崎学『突破者』〕。 友人の始めたコンピュータ会社などの勤務を経て(一時、夜勤の守衛もやっていた)、文筆業に入る。 1981年に初の単著となる『封建主義、その論理と情熱』(改題で『封建主義者かく語りき』)を情報センター出版局から刊行。これは当時一般に信じられていた民主主義や人権論の矛盾を追究し、脱却する道として封建主義(主に、孔子の唱えた儒教)を提唱する内容だった。 上記の思想から、長年に渡って主に、「進歩主義的」な左翼勢力の批判(「朝日新聞」や、新左翼がさらに思想的に袋小路に入った『珍左翼』(呉の命名)など)を主に行ってきた。だが、近年の左翼思想の退潮から、右翼側の「産経新聞」の批判的研究などをはじめ、「産経新聞」にしばしばトンデモ系のオカルト記事が掲載されることなどを、批判している。(俗流オカルト思想には一貫して批判的である) また、呉ら全共闘世代の新左翼の間で、カリスマ的存在であった吉本隆明についても初期から批判的で、吉本の重要な思想的基盤である「大衆の原像」の抽象性を批判。また、吉本が花田清輝ら左翼陣営内の論争で無敵だったのは、彼が「神学者のふりをした神学者」(マルクス主義を信じない左翼)であったせいだと、している。ただし、吉本の「転向論」については評価している。 漫画にも造詣が深く、石子順造、山根貞男、梶井純、権藤晋が、1967年に創刊していた、漫画評論同人誌「漫画主義」に、つげ義春、白土三平、ジョージ秋山についての評論を発表。また、水木しげるの資料整理のアルバイトを1970年から10年ほどしていた。1973年に『ガロ』誌上で「劇画列仙傳」の連載を開始。1986年には漫画研究の集大成として情報センター出版局から『現代マンガの全体像』を刊行した。現在は、出版情報誌『ダ・ヴィンチ』(メディアファクトリー)に「マンガ狂につける薬」を連載中。 論語や聖書を愛読し、これらから近代批判の思想を読み取っている。1988年に都内で論語を講義する公開講座「以費塾」を、呉に親炙する評論家浅羽通明の手配で開始。月2回、第2、4金曜日に講義がおこなわれ(但し、8月は大学生の夏休みを考慮し休講)、23回前後で論語を通読する内容。2005年9月9日より始まった第14期が最終講義となり、2006年12月22日、終了した。2003年に刊行した『現代人の論語』(文藝春秋)にて、その講義内容の一端を読むことができる。また、2008年から2年間、現在の居住地に近い名古屋で「月イチ論語塾」(主催:なごや博学本舗)を行った。 思想・政治・文化など様々な分野へユニークな提言を続け、自身も再三重要性を訴える通りの教養人・知識人であるが、その文章は一貫してユーモア溢れるくだけた文体を遵守しており(ちょうど政治的視座において対照的な左翼言説とは正反対のスタンス)、明確な論旨と相俟ってその表現は非常に平易である。 西池袋に長く住んだが、1999年の春、父親の介護のため、愛知県に転居した。その父親は、2006年1月に亡くなったが、現在も同所に居住中である。 呉の民主主義批判の影響は大きく、40代の評論家に最も尊敬されている知識人とされ、その思想的影響を受けたものとして浅羽通明、大月隆寛、宮崎哲弥などがいる。小谷野敦も呉を尊敬していると公言している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉智英」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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