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呉朝(ごちょう、939年 - 968年)は、現在のベトナム北部を支配した王朝。首都は古螺(コロア、現在のハノイ市ドンアイン県)。 ベトナムで編纂された史書『大越史記全書』では、建国者の呉権(ゴ・クエン)は前呉王、呉権の息子である呉昌岌(ゴー・スオン・ガプ)と呉昌文(ゴー・スオン・ヴァン)の2人は後呉王と称されている〔杉本「呉権」『アジア歴史事典』3巻収録〕〔杉本「呉朝」『アジア歴史事典』3巻収録〕。 == 歴史 == === 王朝成立まで === 南越滅亡後にベトナム北部は中国王朝の支配下に置かれ、唐代には交州に設置された安南都護府の支配下に置かれていた〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、48頁〕。唐が滅亡する前年の906年に海陽(ハイズオン)の領主・曲承裕(クック・トゥア・ズゥ)が交州節度使を自称するが、力の衰えていた唐に曲承裕を抑える力は残っていなかった〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、56頁〕。曲承裕の一族は大羅(ダイラ、現在のハノイ)を本拠として節度使を名乗り、行政区画と租税制度を制定し、戸籍を作成して交州を統治した〔。曲承裕の孫である曲承美(クック・トゥア・ミィ)は後梁から節度使を名乗る許可を得るが、交州に近接する広東を支配する南漢は自国を無視した曲承美の外交政策に不快感を表した〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、57頁〕。930年に南漢は交州に進攻して曲承美を捕虜にし、紅河デルタ地帯の中心部を占領した。 だが、曲承美の部将・楊廷芸(ズオン・ディエン・ゲ)が拠る愛州(現在のタインホア)には南漢の支配は及ばず、931年に楊廷芸は南漢の占領下に置かれていた大羅を奪還した〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、57-58頁〕。戦後に楊廷芸は南漢から節度使の称号を認められるが、937年の春に楊廷芸は部下の矯公羨(キュウ・コン・ティエン)に殺害される〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、58頁〕。楊廷芸の女婿である呉権は義父の死に対して決起し、北ベトナムは反中国的な政策を採る呉権と親中国的な方針を採る矯公羨の二派に分かれて対立した〔。 矯公羨は南漢に援軍を要請し、南漢皇帝劉龑の皇子・劉弘操の率いる10,000人超の軍隊が北ベトナムに派遣された〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、59頁〕。938年の秋に呉権は矯公羨を殺害し、白藤江(バクダン江)で劉弘操の艦隊を撃破した(白藤江の戦い)。939年の春、呉権はかつての甌雒国〔蜀泮を参照。〕の首都である古螺を都として王を自称した〔小倉『物語 ヴェトナムの歴史 一億人国家のダイナミズム』、61頁〕。呉権の統治下で北ベトナムは一時的に平和を取り戻した〔ファン・ゴク・リエン監修『ベトナムの歴史 ベトナム中学校歴史教科書』、153頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉朝」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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