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呉 漢(ご かん、? - 44年)は、後漢の武将。字は子顔(しがん)。南陽郡宛(河南省南陽市)の人(『後漢書』列伝8・本伝)。光武帝の功臣であり、雲台二十八将の第2位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 ==事跡== 家は貧しく、県に出仕して亭長となるが、その賓客が法を犯したため戸籍を脱し、彭寵〔当時、彭寵は洛陽で王莽配下の王邑の軍にあり、弟が漢軍にいると聞いて罪に問われるのを恐れ、またその父は以前漁陽太守であった。〕と共に漁陽に逃げ、馬を商うなどして幽州に暮らし、地元の豪傑と誼を結んだ。 更始1年(23年)更始帝の使者によって、彭寵は漁陽太守、呉漢は安楽令となった。その12月に邯鄲に王郎が兵を興すと、もとより更始帝 の行大司馬劉秀に付くべき考えていた呉漢は、劉秀の檄文を捏造し、王郎は偽者でどこかしこも劉秀に帰属していると、或る者に言わせる謀略によって、漁陽太守の彭寵や官僚を信じさせた。同郡の蓋延・王梁、更に上谷郡の将景丹・寇恂・耿弇と共に、王郎の軍を撃ち、広阿で劉秀の軍に合流した。偏将軍に任じられ、劉秀が王郎の邯鄲を討った後に列侯に封じられた。更に劉秀が幽州から兵を発する際には大将軍に任じられ〔鄧禹による推挙。〕、更始帝の幽州牧苗曽を右北平郡に斬って、その軍を奪い、更に兵を集め、銅馬軍を追う劉秀本軍に合流した。また岑彭と共に更始帝の尚書令謝躬を魏郡鄴に斬った。 建武1年(25年)、呉漢は諸将と共に図讖を劉秀に献じ、劉秀に皇帝に即位することを促した。即位した光武帝は、呉漢を先の苗曽・謝躬を斬った功によって大司馬と為した。 建武2年(26年)、九将〔王梁、朱祜、杜茂、賈復、堅鐔、王覇、劉隆、馬武、陰識〕を率いて流賊の壇郷を破って降した。功によって広平侯となり四県を賜った。 建武3年(27年)、二将〔耿弇、蓋延〕を率いて流賊の青犢を破って降し、また七将〔杜茂、陳俊、他不詳〕を率いて、当時の群雄の1人劉永の将蘇茂を破った。 建武4年(28年)、流賊の五校を破った。 建武5年(29年)、耿弇を率いて富平・獲索の賊を破り降した。また劉永の遺児劉紆を捕えた。 建武6年(30年)、東海郡の群雄であった董憲を降して洛陽に凱旋し、叛乱した隗囂に備え長安に駐屯。 建武8年(32年)、光武帝の隗囂親征に従い、隗囂を岑彭と共に囲むも公孫述の救援のため長安まで撤退。 建武9年(33年)、四将軍〔王常、朱祜、王覇、侯進〕を率いて、群雄盧芳の将賈覧を撃つも勝たず。翌10年(34年)、王覇等五将軍〔王常、朱祜、侯進、残り不詳〕を率いて、賈覧と匈奴の連合を退けた。 建武11年(35年)、岑彭を率いて、蜀の公孫述を討つ。岑彭が暗殺された後は、全軍を統括して、翌12年(36年)、遂には蜀・公孫述を滅ぼした。 建武18年(42年)、二将軍〔劉尚、臧宮〕を率いて、叛乱した蜀郡守将史歆を討った。 建武20年(44年)、逝去し、有司が武侯を奏上するも、光武帝により忠侯と諡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「呉漢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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