|
周 宗(しゅう そう、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。涼州天水郡冀県の人。 == 事跡 == 隴右〔中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋時代の僅かな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。〕に割拠した新末後漢初の群雄の1人隗囂の配下である。 更始帝(劉玄)が即位し、王莽が敗北したと聞いて、成紀(天水郡)の豪族隗崔(隗囂の叔父)、隗義(隗囂の兄)が挙兵しようとすると、周宗は上邽(隴西郡)の楊廣と共にこれに呼応し、鎮戎の大尹(新制における天水郡の太守)を討ち取っている。その後、隗囂が上将軍として頭領に推戴されると周宗も配下に加わり、漢復1年(23年)7月に隗囂が郡国に発した漢朝復興の檄においても、周宗は雲旗将軍として名を列ねた。 漢復2年(24年)、隗囂が更始帝の招請に応じて長安入りすると、周宗も同僚の王遵と共にこれに随従している。翌更始3年(25年)夏、淮陽王張卬らによる更始帝への兵変に隗囂も参与したが露見し、隗囂は更始帝からの召喚を拒否して自邸に立て篭もった。この時、周宗・王遵も折を見て隗囂との協議を重ね、遂に隗囂らは包囲を突破して隴右へ帰還した。 その後も、周宗は隗囂の腹心の1人としてその統治を補佐している。建武7年(31年)、隗囂が公孫述の傘下となり、朔寧王に封じられ、漢に叛く。周宗もこれに追従したが、翌建武8年(32年)になると、隗囂軍は政軍両面で次々と漢軍に切り崩され窮地に陥ったため、王元(隗囂の腹心)が蜀の公孫述への使者となって、救援を求めた。これにより、王元は蜀から5千人余りの援軍を借り、周宗も行巡と共にこれに合流し、西城(隴西郡)に包囲された隗囂の救援に向かった。漢軍との激戦の末、王元・周宗らはついに隗囂を救出し、冀県へ退却することに成功している。また、漢軍も兵糧不足のため撤退し、安定・北地・天水・隴西の各郡は再び隗囂に帰属した。 建武9年(33年)春、隗囂が病没すると、周宗は王元らと共に隗囂の遺児隗純を朔寧王に擁立して、漢軍に抵抗を続ける。しかし翌建武10年(34年)10月、落門聚(天水郡冀県)で漢軍の来歙らに敗北し、周宗は隗純と共に漢に降伏した。 これ以後、周宗の名は史書に見られない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「周宗」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|