|
周 嵒(しゅう がん)は中華民国(台湾)の軍人。字は奉璋。 == 事跡 == 浙江中学、浙江陸軍小学、浙江第二予備学校をそれぞれ卒業した。1914年(民国3年)8月、保定陸軍軍官学校第3期砲兵科に入学し、1916年(民国5年)8月に卒業した。その後は浙江陸軍に編入され、1924年(民国13年)には陸軍大学正則班第7期として学んだ。1927年(民国16年)に卒業している。 その直後、周嵒は国民革命軍に転じ、1928年(民国17年)春に第26軍第5団団長に昇進した。以後も着実に昇進し、1933年(民国22年)3月、第6師師長となり、第4次・第5次の中国共産党(紅軍)掃討作戦に従事した。1935年(民国24年)4月、陸軍中将の位を授与されている。西安事変後に第6師を率いて陝西省入りした。1937年(民国26年)1月、討逆軍第4集団軍第4縦隊指揮官を務めている。 同年に日中戦争が勃発すると、周嵒は第75軍軍長に昇進し、第2次上海事変(淞滬抗戦)で日本軍と交戦している。翌年春には台児荘の戦いにも参戦した。6月、江南区指揮官を兼任し、武漢防衛戦(日本側呼称・武漢作戦)に参戦している。1939年(民国28年)1月、第31集団軍副総司令に昇進し、翌1940年(民国29年)5月、棗宜会戦に参戦した。同年7月に第26集団軍総司令に昇進し、1943年(民国32年)11月、常徳会戦に参戦している。1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央監察委員に当選した。 戦後の同年8月、周嵒は第6戦区副司令長官に就任し、翌1946年(民国35年)2月、同戦区を再編した第6綏靖区司令官となった。1948年(民国37年)9月、第1綏靖区司令官に異動する。1949年(民国38年)1月、京滬警備副総司令兼浙江警備司令となり、翌月、浙江省政府主席に任ぜられた(共産党への内通を図り解任・逮捕された陳儀の後任)。国共内戦敗北に伴い台湾に逃れ、総統府戦略顧問となる。1952年(民国41年)10月、退役した。 1953年(民国42年)7月22日、台北市にて病没。享年59(満57歳)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「周嵒」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|