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周有光(しゅう ゆうこう、1906年1月13日? –)は、中国の経済学者、言語学者。漢語拼音方案の策定とその普及にかかわった。非常に長命で、百歳をこえてからの政治批判でも知られる。 本名は周耀平であり、周有光は本来ペンネームであるが、本名で呼ばれることはほとんどない。 == 生涯 == 周有光は江蘇省常州に生まれた。1923年に上海の聖ヨハネ大学に入学するが、1925年に五・三〇事件の学校側の措置に怒った教師・学生が集団で大学を去って新しい光華大学を創立すると、周有光も光華大学に移った。1927年に光華大学を卒業した。1933年に張允和(1909-2002)と結婚した。張允和の妹の張兆和は沈従文夫人である。 1933年から日本に留学した。河上肇に経済学を学ぶ予定だったが、同年河上が検挙されたため、目的を果たすことができなかった。はじめ東京大学に学び、後に京都大学に移ったが、1935年に留学生活を中断して帰国、光華大学で経済学を教えた。日中戦争中は奥地に逃れ、また新華銀行に勤務した。戦後は欧米諸国や香港に滞在した。 中華人民共和国が成立すると上海にもどって復旦大学と上海財経学院の経済学の教授をつとめる一方、文字改革に関する著作を発表した。そのことが評価されて、1954年に文字改革委員会に招かれた。委員会の仕事を継続するように言われたため、翌年大学を辞職して北京に引っ越し、これ以降は経済学はやめて文字改革の専門家として活動することになった。 文化大革命では「反動学術権威」として批判され、寧夏の五七幹部学校に送られた。1971年に釈放された。文革終了後に文字改革に関する著作活動を再開した。1979年にワルシャワで行われた国際標準化機構の会議上で拼音を国際標準にすることを提案し、その結果1982年に ISO 7098 として標準化された〔 〕。 その他、1980年代には『ブリタニカ百科事典』を中国語に翻訳するための委員をつとめた。また『中国大百科全書』の社会科学部分の総編集委員をつとめた〔。 1988年にシャープから拼音入力のワープロを贈られて以来、入力の問題にも関心を持つようになった〔。 文字改革委員会が1985年に国家語言文字工作委員会と名を変えた後も委員でありつづけたが、1989年に退職した。2006年に百歳の誕生日を迎えた後も盛んに著作を発表しつづけた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「周有光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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