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周福成[しゅう ふくせい] 周 福成(しゅう ふくせい、、1898年(光緒24年) - 1953年)は、中華民国の軍人。東北陸軍(奉天派)出身で、後に国民革命軍に転じた。盛京将軍管轄区奉天府の人。 == 事績 == 保定陸軍軍官学校第9期を卒業し、その後は東北陸軍(奉天派)で軍歴を重ねた。1927年(民国16年)5月、東北陸軍第6旅第17団団長に昇進している。1933年(民国22年)、に参戦し、戦役最中の3月23日に第129師師長に任命された。翌年、部隊を率いて河南省の信陽に駐屯し、光山で中国共産党(紅軍)包囲・掃討に従事している。1935年(民国24年)4月、陸軍少将銜を授与され、9月には陝西省北部で引き続き紅軍への包囲攻撃を行った。〔徐主編(2007)、936頁。〕〔劉国銘主編(2005)、1626頁。〕 日中戦争(抗日戦争)が勃発すると第116師師長に任命され、永清・安次一帯で日本軍と抗戦している。その後、山西省南部の太行山で日本軍を相手にゲリラ戦を展開した。1938年(民国27年)6月、武漢防衛戦に参戦している。同年12月、第53軍軍長に昇進した。翌1939年(民国28年)7月、陸軍中将銜を授与される。1942年(民国31年)9月、湖南省岳陽や湖北省監利で日本軍を攻撃した。1943年(民国32年)、部隊を率いて雲南省西部で日本軍を攻撃し、騰沖を攻略している。1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央監察委員候補に選出された。〔〔 国共内戦勃発に伴い、周福成は第53軍を率いて秦皇島に移駐した。1947年(民国36年)4月より東北の前線に移り、7月、第8兵団司令官に昇進している。〔1945年から1947年までの動向は、徐主編(2007)、936頁に拠る。劉国銘主編(2005)、1626頁は任命時期等に誤りが多い。〕1948年(民国37年)4月、松江省政府主席に任命され、翌月には国民政府主席東北行轅政務委員会委員も兼任した。同年、第8兵団を率いてに参戦、瀋陽防守兵団司令官に任ぜられる。しかし遼瀋戦役は国民党側劣勢となり、東北剿匪総司令衛立煌が瀋陽を離れると周が総司令代理に任ぜられる。11月に瀋陽は陥落し、周は変装して逃れようとしたが結局東北人民解放軍に発見、捕虜とされた。その後、ハルビンに連行され、解放軍官教導団で思想改造を受けることになる。1953年3月に釈放されたが、それから数か月の内にハルビンで病没した。〔李(2012)に拠る。徐主編(2007)、936頁と劉国銘主編(2005)、1626頁は「撫順県」で死去した、としている。〕享年56。〔〔
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「周福成」の詳細全文を読む
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