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周 道剛(しゅう どうごう)は、中華民国の軍人。川軍(四川軍)の有力指揮官。字は蓁池。 == 事跡 == 四川武備学堂を卒業後、日本へ留学する。陸軍士官学校第3期歩兵科で学んだ。卒業後に帰国し、四川陸軍学堂監督、四川新軍管帯、第33協第65標標統などを歴任する。 1912年(民国元年)、四川都督署陸軍部長をつとめる。まもなく北京総統府諮議官に異動した。また、進歩党にも入党している。 1916年(民国5年)、護国戦争に際して蔡鍔らの護国軍に呼応し、袁世凱討伐に参加した。蔡から四川軍第1師師長に任命されている。四川軍の劉存厚、雲南軍の羅佩金、貴州軍の戴戡による四川省での三つ巴の混戦を経て、1917年(民国6年)7月までに羅佩金は四川省を撤退し、戴戡も戦死する。これを受けて周道剛が北京政府から代理四川督軍に任命された。 周道剛は、勢力確保のために、長江上遊司令兼四川査弁使呉光新の援軍を受けた。しかし、顧品珍らの雲南軍の攻撃を受けて周は敗北し、同年12月には下野に追い込まれた。 日中戦争(抗日戦争)期から1948年(民国37年)3月まで国民参政会参政員を務めた〔『四川省志 人物志』下冊によると、1945年(民国34年)に引退としている。〕。 1953年、死去。享年79。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「周道剛」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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